昨日、お年玉付き年賀はがきの当選番号が発表されました。まだ家族に来た分は調べておりませんが、当方宛で4枚、4等(下2けた-お年玉切手シート)が当たりました。うち1枚は、花巻の財団法人高村記念会からいただいたもの、2枚は高村光太郎研究会でご一緒させていただいている方々からのものでした。ありがとうございます。
 
お年玉付き年賀はがきといえば、当方、光太郎が出したお年玉付き年賀はがきを1枚所有しています。
 
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 昭和26年(1951)のもので、花巻郊外太田村の山小屋から岩手県立美術工芸学校長だった美術史家の森口多里にあてたものです。ただし、3月10日の日付となっており、年賀状ではなく、あまった年賀はがきを使ったものでしょう。
 
文面は以下の通りです。
 
おてがみにより別封でお祝のことばをお送りいたしました。
今冬は小生肋間神経痛のため外出不能で引籠つてゐますが、昨年は今頃黒沢尻の貴邸で誕生祝のたのしい御馳走をいただいた事を思ひ出します。ああいふことは思ひ出してもたのしいです。
今年はここの炉辺でじつとしてゐる外ありませんが、ビタミンやホルモンのせいだらうと思ふので春になればなほるに違ひないと考へてゐます。
 
お祝のことば」は、『高村光太郎全集』第11巻所収の「岩手県立美術工芸学校第一回卒業式祝辞」。このころの日記に関連する記述があります。光太郎は既にこの時点では結核に冒されています(本人は対外的には頑強に否定していましたが)。そのための「肋間神経痛」や「引籠」です。「誕生祝のたのしい御馳走」についても、近年の調査で詳細がわかりました。長くなりますので、いずれ光太郎の誕生日の頃のブログで御紹介します。しかし、3月10日でも「春になれば」と書いているあたり、厳しい北国の環境がうかがえます。
 
調べてみましたところ、初のお年玉付き年賀はがきは、この前年の昭和25年(1950)用として発売されたそうです。当時の1等商品は足踏みミシン。時代を感じますね。
 
ところで、今年の当たり番号を確認していて思ったのですが、年々、賞品は豪華になっているものの、当たる本数が減っているようです。以前は下2けたも3本あったはずですが、今は2本。いつから2本になったのでしょうか?下3けたの当たりがなくなって久しいし、下4けたも以前は2本だったと思いますが、今は1本だけ。豪華賞品でなくてよいので、もっと本数が多く当たってほしいと思うのは当方だけでしょうか?
 
【今日は何の日・光太郎】1月21日

明治45年(1912)の今日、大森の料亭富士川で開かれた青鞜社新年会に智恵子も参加しました。
 
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中央・智恵子 右から二人目・平塚らいてう