今年も年賀状をたくさんいただきました。ありがとうございます。特に昨年から肩書きが変わったもので、昨年までいただいていなかった方々から新たにいただくようになり、感謝しております。
当方からの年賀状は、ここ数年、干支と光太郎がらみの画像を使用しています。初めてそうしたのは3年前。寅年だったので、光太郎の塑像「虎の首」(明治38年=1905)の画像を使いました。一昨年の卯年は同じく光太郎の木彫「兎」(明治32年=1899)、昨年の辰年は光雲作の「沙竭羅(さがら)竜王像」(明治36年=1903)。こちらは現在でも浅草寺で見ることが出来ます。
そして今年は巳年ということで、蛇に関わるものを探したのですがなかなか見つからず、結局、明治43年(1910)の『スバル』2年2号に掲載された与謝野晶子を描いた戯画「SALAMANDRA」を使いました。古代エジプトの女神風の晶子が口から蛇を吹き出しています。画像は1/1のブログに載せました。
「年賀状」。一般に広く行われるようになったのは、やはり郵便制度の普及による明治以降のようですが、古くは平安時代にすでに貴族階級の間に行われていたとのこと。大手町の逓信総合博物館さんのページです。
ちなみに同館には光太郎の葉書も所蔵されており、以前に調査させていただきました。
さて、光太郎が書いた年賀状。『高村光太郎全集』や「光太郎遺珠」に何通か掲載されていますし、当方、実物も何度か拝見しました。
下の画像は『高村光太郎全集』第21巻に掲載されている、大正4年に鋳金家の川崎安に宛てたものです。
はじめは木版かと思っていましたが、『スバル』の仲間だった木下杢太郎に宛てた同じデザインの物を神奈川近代文学館で拝見したところ、版画ではなく墨書でした。文字の周りを墨で黒く塗りつぶす「籠書き」と言われる筆法です。短歌を書いた短冊などでもこの手法を用いた物が残っています。光太郎の並々ならぬ造形感覚が見て取れますね。
その後、同じデザインの年賀状が続々見つかりました。宛先は森鷗外、前田晃(編集者)、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)。木下宛も含め、それらはすべて明治44年(1911)のものです。そこで、『全集』所収の川崎安宛も消印の見誤りで、やはり明治44年のものなのではないかと思っております。
それにしても、100年以上前の年賀状がしっかり残っている、というのも考えてみればすごい話です。よくぞ保存しておいてくれた、と思います。
さて、当方からの年賀状。来年以降も干支と光太郎がらみで行きたいと思っています。お楽しみに。
【今日は何の日・光太郎】1月4日
昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエに詩人の宮崎稔親子が年始の挨拶に来ました。
宮崎の妻・春子は智恵子の姪。看護婦の資格を持ち、品川のゼームス坂病院で智恵子の身の回りの世話をし、その最期を看取りました。その後、光太郎が間に入って宮崎と結婚しました。
宮崎の妻・春子は智恵子の姪。看護婦の資格を持ち、品川のゼームス坂病院で智恵子の身の回りの世話をし、その最期を看取りました。その後、光太郎が間に入って宮崎と結婚しました。