カミーユ・クローデル。
昨日御紹介した「ロダン翁病篤し」に名前があったロダンの弟子の一人だった女性です。1864年の生まれ。この名前が出てくると、当方、胸を締め付けられる思いがします。
光太郎が昭和2年(1927)に書き下ろしで刊行したアルス美術叢書『ロダン』から。
クロオデル嬢は詩人クロオデルの同胞、嬢自身もロダンの弟子となつて優秀な彫刻を作つてゐる。書くことを許せ。彼女の美はロダンの心を捉へ、一時ロダンをして彼女の許へ走らしめた。ロダン夫人は後年当時の苦痛を思出してはよくロダンに述懐した相である。「でもお前を一番愛してゐたのさ、だつて今だに其処にゐるのはお前ぢやないか、ロオズ、」と其度にロダンは慰めた。クロオデル嬢は巴里の北二十五里程あるシヤトオ チエリイの近くから出て来てロダンの弟子となり、直ぐ才能を表はして「祖母」で三等賞を取つたりしたが、後にロダンと別れてから健康を害し、ヸル エヴラアルに閉囚せられてゐたといふ。ロダンの一生に於ける悲しい記憶の一つである。
光太郎は婉曲に書いていますが、「健康を害し」は「精神を病んで」という意味です。
19歳の時に42歳のロダンに弟子入りし、激しい恋に落ち、ロダンの子供を身ごもります。しかしロダンには内妻ローズ・ブーレが既にいました。結果、中絶。
光太郎は「優秀な彫刻を作つてゐる」と好意的に表しています。実際、ロダンの作品の助手としても腕をふるっていましたが、彼女単独の作品は、同時代のフランスでは「ロダンの猿まね」という評もありました。
そうしたもろもろが積み重なって、精神に破綻を来したのです。
これは彼女の代表作の一つ「分別盛り」。
左の男性はロダン。よく見るとその背後から覆い被さる老婆が男を連れて行こうとしています。この老婆がローズ。そして右の取りすがる女性がカミーユ自身です。悲しい彫刻です……。
彼女が入院したのはかなり劣悪な環境だった病院でした。そこで「ロダンが彫刻のアイディアを盗みに来る」との妄想にとりつかれていたとのこと。実に30年の入院を経て、恢復することなく、1943年、歿。
ある意味、智恵子を連想させませんか?
光太郎にはロダンのように三角関係的な話は表だってはありませんが、巨大な才能の前につぶされてしまった才能、という意味ではロダンとカミーユ、光太郎と智恵子は相似形を形作っています。
芸術の世界とは、かくも恐ろしい物なのですね……。