11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にての当方の発表、題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号に載った光太郎の随筆「海の思出」の検証でした。その内容を延々紹介して参りましたが、今回で一区切りです。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。『海運報国』という船舶関連の雑誌に載った文章なので、一種のリップサービスかな、と思いましたが、既知の光太郎作品にあたってみると、どうもそれだけではなさそうです。
 
△東京の自動車は危険で、あれに乗るには戦闘準備をしてゐないとならないので嫌い。汽車は酔ふから嫌い。汽船は動けば動くほどいゝ気持になつてきて、ちつとも酔はないのです。
(「〔生活を語る〕」『詩神』第2巻第6号 大正15年=1926)
 
  若し此世が楽園のやうな社会であつて、誰が何処に行つて働いても構はず、あいてゐる土地なら何処に棲んでも構はないなら、私はきつと日本東北沿岸地方の何処かの水の出る嶋に友達と棲むだらう。そこで少し耕して畠つものをとり、少し漁つて海つものをとり、多く海に浮び、時に遠い山に登り、さうして彫刻と絵画とにいそしむだらう。船は私のなくてならない恋人となるだらう。私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
(「三陸廻り」『時事新報』 昭和6年=1931)
 
『海運報国』の発行元、日本海運報国団は、光太郎がこういう考えの持ち主だと知って、執筆を依頼したのかもしれません。
 
さて、長々と「海の思出」に書かれた内容を検証して参りましたが、既知の作品や年譜に載っていない新事実は以下の通りでした。
 
幼少年期        ・小学校で蒲田の梅園に遠足に行ったこと
               ・十四歳頃、江ノ島に一人旅をしたこと
渡米(明治39年=1906)   ・ヴィクトリア経由であったこと
渡英(同40年=1907)    ・ホワイトスター社の「オーシャニック」に乗船したこと
渡仏(同41年=1908)    ・ニューヘブン~ディエップ間の航路を使ったこと
 
一篇の随筆を新たに見つけただけで、これだけの新事実が判明しました。ここまでたくさん判明するのは珍しいケースですが、新発見の短い書簡一つにも、新事実が含まれているというのはよくあるケースです。まだまだ埋もれている光太郎作品はたくさんあると考えられ、その発掘にさらに精を出したいと思います。
 
さて、以上、「海の思出」に「書かれていたこと」ですが、「書かれていないこと」にも注目してみたいと思います。
 
「書かれていた」思い出は、明治末の留学時代のことがメインで、ほんの少し幼少年期の話でした。たしかに留学の際には四年ほどの間にぐるりと地球を一周、その移動の大半が船に乗ってのことでしたので、いつまでも記憶に残っていても不思議ではありません。しかし、光太郎の人生に於いて、もう一回、長い船旅をしたことがあります。
 
それは昭和6年の夏。『時事新報』に載った紀行文「三陸廻り」の執筆のためのもので、宮城の石巻から岩手の宮古まで、少しは陸路を使っていますが、そのほとんどを船で移動しています(この旅で女川との関わりができたわけです)。しかし、「海の思出」では、この時の話には一切触れていません。
 
確かに留学時代のように、大洋を渡った001わけではありませんが、それなりに長い距離ですし、何より「海の思出」が書かれた昭和17年の時点から考えれば、11年しか経っていません。それなのに40年近く前の留学の話がメインなのです。これはどういうことでしょうか。
 
「書かれていないこと」についての考察は、とかく恣意的になりがちで、えらい学者先生には怒られるかも知れませんが、あえて考えてみると、三陸旅行中に智恵子の統合失調症が顕在化したという事実を無視できません。光太郎にとって、三陸旅行はつらい記憶を呼び覚ますものでもあったので、「海の思出」に書かなかった(または書けなかった)のではないか、と思えてしかたがありません。いかがでしょうか?
 
以上、「海の思出」に関するレポートを終わります。