昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポート。あと少しです。
 
明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
「オーシャニック」での船旅でのエピソードを、「海の思出」に光太郎はこのように書きます。
 
私と同じ船室に居た若いフランスの男に君の住所は何処かとたづねたら、「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」と答へた。
 
まるで映画のワンシーンのようですね。「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」なかなか言えるセリフではありませんね。映画といえば、こんなエピソードも。
 
驚いたのはその船に乗つてから初めて知り合つた米国の男女が一週間の航海のうちに恋愛成立、上陸したらすぐ結婚式をあげるのだと一同に披露したことであつた。一同は大にそれを祝つた。
 
映画の「タイタニック」を彷彿させます。もっとも、あちらのディカプリオとケイト・ウィンスレットは例の氷山衝突事故のため、永遠の別れを余儀なくされましたが……。
 
さて、「タイタニック」といえば、光太郎が乗った「オーシャニック」と同じ、ホワイトスター社の船です。処女航海(結局、これで沈没してしまうのですが)は明治45年(1912)。光太郎が「オーシャニック」で渡英した5年後です。この2隻、単に同じホワイトスター社の保有というだけでなく、かなり密接な関係があります。
 
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すなわち、前回のこのブログで書いた「オーシャニック」の基本理念、「豪華な設備と乗り心地のよさ」を発展させていったものが「タイタニック」なのです。また、「タイタニック」のクルーの中に、「オーシャニック」のクルー経験者が4人います。マードック1等航海士、ライトラー2等航海士、ピットマン3等航海士、ムーディ6等航海士の4人です。特にライトラー2等航海士とピットマン3等航海士は、光太郎が乗船した明治40年の時点で、「オーシャニック」に乗っていたようです。
 
「タイタニック」は氷山との衝突による沈没という悲劇的な末路をたどりましたが、「オーシャニック」もその末路は哀れでした。
 
華やかな名声に包まれたこの客船には、短い寿命しかなかった。一九一四年、第一次大戦が勃発するや、仮装巡洋艦に改装され、第一〇巡洋船隊に配属されて作戦行動に出る。ところが、大型商船に無経験な海軍士官が艦長になっていたせいか、悪天候のなかでシェトランド諸島の島で座礁沈没、わずか一五年の生涯を閉じてしまう。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
諸行無常、盛者必衰ですね……。
 
「海の思出」、この後は明治41年(1908)の渡仏に関する短い記述が続きます。
 
 英仏海峡はニユウヘブン――ヂエツプを渡つた。至極平穏な数時間で、私はその間にドオデエの「サフオ」を読み了(おは)つた。海峡の現状を新聞で読むと感慨無きを得ない。
 
何気なく書いてありますが、ニユウヘブン(ニューへブン・英)――ヂエツプ(ディエップ・仏)間の航路を使ったというのも、今まで知られていた光太郎作品や年譜には記載されていませんでした。ちなみにここには現在も航路が通っています。
 
「海峡の現状」は、この「海の思出」が書かれた昭和17年(1942)に、「ディエップの戦い」という連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦が行われたことなどを指していると思われます。
 
さらに「海の思出」は、留学の末期(明治42年=1909)にイタリア旅行に行って訪れたヴェニスの記述をへて、同じ年の帰国に関して記されます。そちらは次回に。