昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。
 
幼少年期、渡米に続いて書かれているのは、明治40年(1907)に、アメリカからイギリスに渡った際の話です。
 
最大の収穫は、渡英の際に乗った船が判ったことでした。
 
これまでに見つかっていた光太郎の文筆作品では、明治40年、渡英の船内で書かれた「雲と波」という比較的長い文章があり、航海の様子などは詳細に記されていました。しかし、肝心の船名は書かれていませんでした。また、昭和29年(1954)に書かれた「父との関係-アトリエにて-」という文章でも渡英に触れていましたが、船名の記述はなし。ただ、「ホワイト スタア線の二万トン級」とだけは書かれていました。「ホワイトスター」は、イギリスを代表する船会社で、明治45年(1912)には、かのタイタニックを就航させています。
 
さて、「海の思出」。
 
大西洋を渡つたのは一九〇七年の晩秋頃だつたと思ふが、この時は二萬トンからある「オセアニヤ」とかいふホワイト・スタア線の大汽船で、ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。
 
と、船名が書かれていました。やはり船会社はホワイトスター社とのこと。そこで早速調べて見ましたが、同社の船には「オセアニア」という船名はありませんでした。しかし、よく調べてみると、同社の主要な船は「タイタニック」(Titanic)のように、すべて「~ic」で終わる名前を付けています。これをあてはめると「オセアニア」(Oceania)ではなく「Oceanic」となるはず。こう思って調べてみると、「Oceanic」、確かにありました!
 
まず、明治4年(1871)に就航した同社最初の大西洋横断船。ところが、これは渡米の際に乗った「アセニアン」と同じくらいの3,707トンしかなく、時期的にも古すぎます。しかし、洋の東西を問わず、船名は同じ名前を使い回す習慣があり、「Oceanic」にもⅡ世がありました。こちらは明治32年(1899)の就航。光太郎が渡英した同40年(1907)にも現役で航行していました。総トン数も17,272トン。光太郎曰くの「二萬トンからある」に近い数値です。
 
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ところで「Oceanic」の片仮名表記ですが、当たった資料によって「オセアニック」「オーシアニック」「オーシャニック」といろいろでした。いずれにせよ、「Ocean=海」の派生語ですので、ここからは「オーシャン」に近い「オーシャニック」と表記します。
 
さて、「オーシャニック」。ホワイトスター社のみならず、大西洋航路全体として見ても、画期的な船でした。画期的ゆえに、同社では記念すべき大西洋航路の初船と同じ「オーシャニック」の名を冠したのです。その画期的な部分が、「海の思出」や「雲と波」の光太郎の記述と合致します。どこがどう画期的だったのかは明日のこのブログで紹介します。