国立西洋美術館の「手の痕跡」展にからめ、光太郎とロダンのかかわりについて述べてみます。
筑摩書房発行『高村光太郎全集』の第7巻には、単行書にもなった評伝「オオギユスト ロダン」をはじめ、ロダンについて書かれた光太郎の評論等が数多く掲載されています。それらを読むと、光太郎がロダンによって眼を開かれ、多大な影響を受けたことが見て取れます。
ロダン程、円く、大きく、自然そのものの感じを私に起させる芸術家は、ルネサンス以降に無い。埃及(エジプト)や希臘(ギリシャ)には此の「大きさ」を感じさせる芸術が尠くないが、しかし神経がまるで違ふからわれわれ自身の悩みと喜びとを同じ様に分つてくれない。此点になると、ロダンの芸術は如何にも肉身の気がする。われわれの手を取つてくれる様だ。そしてロダン其人の生活が息のやうにわれわれにかかつてくる。あらゆる善い意味に於て特に近代的だと思はせられる。何千年の歴史がロダンの中に煮つめられてゐるのを感じる。皆生きて来てゐる。人類の歩みをまざまざと見る。(「ロダンの死を聞いて」大正7年=1918)
しかし、光太郎もロダンを頭から肯定しつくしているわけではありません。いったん受け入れた上で、自分なりに咀嚼し、そこから独自の境地を導き出さねばただの猿真似になってしまいます。
限りなく彼を崇敬する私も、彼を全部承認するわけにはゆかない。むしろ承認しない部分の方が多いかも知れない。私は彼と趣味を異にする。此入口が既にちがふ。彼の堪へ得る所に私の堪へ得ないものがある。美の観念に就ても指針が必ずしも同じでない。私の北極星は彼と別な天空に現れる。(「オオギユスト ロダン」昭和2年=1927)
たしかに光太郎の彫刻世界は、ロダンそのものではありません。しかし、光太郎が大見得を切った程にロダンを超えられたか、というと決してそうも思えません。ただし、それは才能の問題ではなく、光太郎に架せられたもろもろの制約のせいという気もします。
ロダンによって眼を開かされ、留学から帰国した明治末期は、父・光雲をはじめとする古い彫刻が主流で、新しい彫刻が受け入れられる素地がありませんでした。その後も生活不如意や智恵子の統合失調症発症、そして泥沼の戦争による物資欠乏、戦後には戦争協力を恥じての山小屋生活での彫刻封印。ようやくそうした制約から解き放たれた老境には、もはや身体がついてゆかなくなってしまいます。
もし光太郎に、自由に彫刻制作に専念できる環境が与えられていたら、と残念に思います。
最後に、今回の「手の痕跡」展の出品作の中から、光太郎と同じことをやっている、というより光太郎が同じことをやっているという手法を発見しましたので。それを紹介します。
下の画像は、今回の出品作のうちの一つ「説教する洗礼者ヨハネ」の足です。解説板には以下のように書いてありました。「歩くという動きにたいして身体の各部分の形は不自然に見える。開いた両足には体重の移動がなく、人間が前進する動きではない。」
たしかに両方のかかとがべたっと地面に着いています。歩いている足としては、これではおかしいのです。
また、解説板には以下の記述もありました。「右肩の関節の位置は解剖学的に正確とはいえず、よく見ると腕も異常に長い。」。つまり随所が人体としてありえない形状なのです。しかし、この彫刻は一見してそのような感じを与えません。これはどういうことなのでしょうか。
答えはやはり解説板から。「部分的に見ると不自然な身体の各部は、統合されたときに美しいシルエットと強い説得力をもって観者に訴えかける。」ということなのです。
さて、光太郎。下の画像は最晩年の十和田湖畔の裸婦像です。
「説教する洗礼者ヨハネ」同様、両足のかかとがべたっと地面に着いています。ここには光太郎の意図があります。この点について、光太郎曰く、
あの像では後の足をスーツとひいているが、あの場合には踵が上るのが本当なんだけれども(立ち上がつて姿態を作り)こういうふうにわざと地につけている。彫刻ではそういう不自然をわざとやるんです。あれが踵が上つていたら、ごくつまらなくなる。そういうところに彫刻の造型の意味があります。(「高村氏制作の苦心語る ”見て貰えば判ります” 像の意味は言わぬが花」昭和28年=1953)
ロダンの意図と全く同じですね。これは意識してロダンの手法を取り入れたのか、そうでないのかは何とも言えません(光太郎は当然、「説教する洗礼者ヨハネ」は見ていますが)。また、当方は門外漢なのでよくわかりませんが、人体彫刻としてこういう手法はロダン、光太郎に限らず、お約束の基本なのかも知れません。詳しい方、ご教授願えれば幸いです。
彫刻も漫然と見るのではなく、こういう点などに注意して見ることも大切だな、と改めて感じた「手の痕跡」展でした。
以上、「手の痕跡」展レポートを終わります。