昨日のブログで、「古い物を000残す」ということについて書きながら、先月、歯医者の待合室で読んだ『週刊ポスト』の記事を思い出しました。イラストレーター・みうらじゅん氏のコラムです。
 
狙われる骨董コレクターの死 甲冑などには中東マネーも流入
 
老舗の古美術店主曰く。

「骨董病という言葉がありまして、一度はまってしまった人は、買い続けていかないと落ち着かない“中毒状態”に陥ってしまう人が多いのです」

 そのため、骨董集めをする人の中には家族に犠牲を強いてしまうこともあるらしい。「故人が収集したコレクションを見るのもイヤ! という遺族は珍しくありません。膨大なコレクションがあっても子供たちが興味を持つことは稀で、たいがいは処分されます」

 この連載の担当者Xが昭和50年代に発行された有名な神社の社史の中で、戦国武将ゆかりの赤備えを揃えた博物館があることを知ったそうだ。関心を覚えたXは、実物を見たいと、その博物館を検索してみた。ところが、全くヒットしない。あれ? と思って、所在地の役場に聞いたそうだ。

 すると、「昔は確かにありましたが、個人で収集したものを展示していたところで、その方が亡くなってから閉鎖されて、鎧もどこにいったのかわかりません」といわれた。せっかく一箇所に集められた「赤備え」は、離れ離れになってしまったのだ。

 同様の話は西日本の方でもあるらしい。これまた珍しい鎧のコレクターがいて、その人が亡くなった後、売りに出されてしまったそうだ。なんでもドバイの大富豪から引き合いがあったというのだ。

 そう。良質のコレクションは、虎視眈々と狙われている。

「親戚の中には、“これ、形見としてもらっていくね”なんて高価なものを狙う人もいるのです。価値のわからない遺族は狙われやすいですね」

 前出のように、甲冑などのジャンルは今や中東マネーも流入するほど活気づいている。だが、「骨董」というくらいだから「新製品」が売りに出されるわけではない。数少ない供給源である「コレクターの死」は狙われるってわけだ。

※週刊ポスト2012年10月12日号
 
いろいろ難しい問題をはらんでいますね。
 
個人の収集家が、家族を犠牲にして収集に明け暮れているようではやはりよくありません。まして個人が自分の収集欲を充たすためだけに収集し、公開も何もせず死蔵してしまったらそれは犯罪にも等しい行為です。

しかし、たとえ死蔵でも、きちんと物が残り、将来的にも保存されるということであればそれはそれで意義はあるでしょう。逆に「断捨離」ブームだからといって、何でもかんでも捨てられてしまっては困ります。
 
当方の自宅兼事務所にも数千点(と思われる……もはや数えられません)の光太郎関連資料が集まっています。幸い、甲冑とか焼き物とかと違い、単価が安いので家族に犠牲を強いるという状態にはなっていません。肉筆物などで単価の高い物も世の中には出回っていますし、まして彫刻作品となるととんでもない値になりますが、そういうものは収集の対象にしていません。そのため家族もある程度理解を示してくれているので助かっています。
 
そして「死蔵」にならないように、こういう物がありますよ、という情報の発信を出来るだけしていこうと考えています。そのためにもこのブログを活用していこうと思っていますので、宜しくお願いします。