001昨日のブログで、島根県立石見美術館の「東京芸大美術館所蔵 日本近代美術の名品展 森鷗外と米原雲海を中心に」を御紹介しました。
 
鷗外については、来月オープンの鷗外記念館を訪れてから、まとめてレポートします。今日はもう一方の米原雲海に関して、簡単に紹介しましょう。
 
雲海は明治2年(1869)、島根・安来の生まれ。長じて大工をしていたのですが、彫刻の道を志し、故郷に妻子を残し(それを隠して)光雲の門をたたきます。それが明治23年のことです。大工として基礎がしっかり出来ていたために、めきめきと頭角を現し、後に文展(文部省美術展覧会)などにも出品、高い評価を受けるようになります。
 
インターネットサイト「青空文庫」さんで、「光雲懐古談」が公開されています。その中の「谷中時代の弟子のこと」に詳細が載っています。
 
明治末、光太郎は留学から帰り、文展などの評を新聞などに発表するようになります。その中では、幼少期から接していた雲海に対しても、歯に衣着せぬ評を与えています(けちょんけちょんにけなしているわけではないのですが)。光太郎は少年時代、米原に木彫を教わったのですが……。
 
ロダンによって西洋近代彫刻への眼を開かれ、日本との目もくらむばかりの格差に打ちのめされていた光太郎にとって、古い仏師の伝統の延長線上にある光雲系の彫刻は、様式にこだわりすぎているように見えたようです。
 
左上の画像は、雲海作「盲人川を渡る」。明治32年(1899)の作、翌年のパリ万博での銀賞受賞作です。ただし光雲の名で出品されました。平成7年3月発行『芸術新潮』第46巻第3号「【特集】日本人が見捨てた明治の美 「置物」彫刻の逆襲」から画像を拝借しました。
 
雲海は大正14年(1925)、数え57歳で没しています。少々早い死です。その少し前、大正8年には光雲との合作で、大きな注文仕事をこなしています(当方、昨年の暮れに見て参りました)。
 
明日はその辺を。