今日、10月21日は、昭和18年(1943)、神宮外苑で学徒出陣の壮行式があった日だそうです。昭和アーカイブス的な番組などで映像を御覧になった方もいらっしゃると思います。
 
そういうわけで、昨日の朝日新聞土曜版の連載「うたの旅人」では、信時潔(のぶとききよし)作曲の「海ゆかば」が扱われました。
 
ある程度の年代以上の方は「ああ、あの曲か」と思い当たられるでしょう。その壮行式の際にも、それからラジオの大本営発表-山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(昭和18年)、アッツ島守備隊の全員玉砕(同)などの悲劇的な報道のバックには必ず使われたとのことです。
 
信時は童謡「一番星みつけた」などの作曲者でもありますが、戦時中は「海ゆかば」のような軍歌、戦時歌謡も作っていました。当方が刊行している冊子『光太郎資料』に「音楽・レコードと光太郎」という項があり、いずれそこで詳細を記しますが、その中には光太郎作詞のものもあります。
 
一つは昭和16年(1941)作、「新穀感謝の歌」。宮中で行われていた新嘗祭に関わるものです。
 
   新穀感謝の歌
 
 あらたふと
 あきのみのりの初穂をば
 すめらみことのみそなはし
 とほつみおやに神神に
 たてまつる日よいまは来ぬ
 (二番以降略)

もう一曲は昭和17年(1942)作、「われら文化を」。これは岩波書店の歌として作曲されたものですが、世相を反映した歌詞になっています。
 
  われら文化を
 
 あめのした 宇(いへ)と為す
 かのいにしへの みことのり
 われら文化を つちかふともがら、
 はしきやし世に たけく生きむ。
 (二番以降略)
 
ちなみにこの曲は平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に収録されています。「新穀感謝の歌」は収録されていません。どうも発表当時もレコードにならなかったようです。もし「新穀感謝の歌」のレコードについてご存知の方がいらっしゃいましたら御一報下さい。

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光太郎も信時も、そして個人ではなく企業としての岩波書店も、そしてその他ほとんど全ての人々が、否応なしに戦時体制の歯車として組み込まれていったのです。
 
と、書くと、「いやそうではない。光太郎は衷心から鬼畜米英の覆滅を願い、赤心から大君のためにその命を捧げ奉る覚悟であったのだ」という論者がいます。はたしてそうなのでしょうか……。