昨日、10月5日は智恵子の命日、レモンの日でした。
智恵子が亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日。没後74年ということになりますか。
下の画像は智恵子の死亡記事と、死亡広告です。


これを読むと、葬儀は8日に行われたことがわかります。その葬儀の日を謳った光太郎の詩。
荒涼たる帰宅

あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
残された詩稿によれば、智恵子没後3年近く経った昭和16年6月11日の作。雑誌等に発表された形跡がなく、おそらくこの年8月20日刊行の『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されます。
愛する者の死を謳い、詩集『智恵子抄』刊行。それで一区切りと考えたのでしょうか、以後、詩の中に智恵子が謳われることがなくなり、空虚な戦争詩の乱発の時期になります。再び智恵子が詩の中に登場するのは戦後になってからでした。
ひとまずレモンの日関連、これで終わります。