閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さん、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さんでは海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしました。日本郵船歴史博物館さんの方では、展示も興味深く拝見しました。
そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
氷川丸は日本郵船さんが所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。かつてかの嘉納治五郎師範が、IOC会議の帰途この船に乗られ、そして洋上で亡くなりました。その他、チャップリンや秩父宮御夫妻なども。
光太郎は帰国の際に日本郵船さんの船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。
しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。