戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介、最後です。
 
赤星朝暉胸像
 
昭和10年(1935)の作。千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられました。赤星朝暉は同校の初代校長です。
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『高村光太郎 造型』春秋社 より
 
例によって光太郎の言から。
 
 松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵へやが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやつてみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。
(「回想録」昭和20年(1945)『高村光太郎全集』第10巻)

 翁は偶然の因縁で、私と同番地の地所内に住居を持つて居られ、そこから松戸の園芸学校へ通つて居られたらしく、あとで思へば、この特色ある面貌には時々往来であつてゐたやうに思ふ。翁が松戸の高等園芸学校の校長さんをやめられたので、学校の校庭に記念の胸像がたてられたわけである。幾年頃であつたか、今忘れてしまつたが、これは学校へ行つて調べればすぐ分ることである。
 翁は近所に居られることとて、よくポーズに通つてくれた。もう七十歳を超えて居られたと見えたが、頑丈な体格を持ち、色の浅黒い、いかにも土に関係の深さうな、特異な相貌をしてゐた。かん骨が高く、眼は凹んでまろく、大きく、鼻がとがり、口も大きく、あごは四角に張つて肉がついてゐた。その二重まぶちのまろい大きな眼が奥の方で光つてゐるさまは、ちよつと戦国時代の野武士をおもはせて愉快だつた。私はこの顔の食ひ入るやうな皺の線條にドナテロ風の食慾を感じて、徹底的にその実在性に肉薄した。これまで作つてゐた都会の文化人等とはまるで違つた人間族の代表がそこに出来上つたやうに感じた。像が出来上がる少し前に翁は物故せられたやうであつたが、この像のきびしさを松戸の学校のお弟子さん達はどう見たか、少々突つこみ過ぎたやうにも感じた。しかし気持は悪くないので、後年、朝鮮徳寿宮の美術館で毎年行はれる日本美術の展観の時、一年間の契約で原型の石膏型をかしたことがある。それでその年の館の図録の写真にこの胸像が出てゐる。今ではそれもこの作品のかたみとなつたわけである。校庭にあつたブロンズの胸像を軍へ献納する時、学校から問合せがあつて、原型が保存されてゐるなら、献納する。原型がもはや無くて、かけがへがないなら、献納しないといつて来た。その時には、まさかアトリエが焼けると思はなかつたので、原型は現存してゐるから献納せられよと返事を出した。それで皆なくなつた。
(「焼失作品おぼえ書き」昭和31年(1956)『高村光太郎全集』第10巻)
 
 この像も、岐阜の浅見与一右衛門像同様、戦後になって再建されています。

 再建は昭和26年(1951)ということで、光太郎存命中ですが、光太郎の書いたものの中に、再建云々の記述は見当たりません。昭和26年といえば、光太郎は花巻郊外太田村山口の山小屋で隠棲中。光太郎と無関係に進められたのではないかと思われますが、詳しいことがわかりません。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。
 
2014/03/03追記 再建された像は、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟に建てられた像の原型を使ったものでした。
 
 松戸は同じ千葉県内で、それほど遠くありませんので、そのうちに調査にも行ってみようかとも思っています。
 
 さて、もう一篇、この像に関する光太郎の言を。
 
間もなく、智恵子の頭脳が変調になつた。それからは長い苦闘生活の連続であつた。その病気をどうかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作つた。これも精神異状者を抱へながらの製作だつたので思つたよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思ひ出しても戦慄を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になつてしまつた。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追はれて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかつたと思ふ。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けてゐると評した。
(「回想録」昭和15年(1940)『高村光太郎全集』第9巻)
 
 なんとまあ、この像を作っている時はこういう状態だったわけです。その意味でも、光太郎にとっては思い出深いものだったのでしょうが、現存しないということで、非常に残念ですね。
 
 明日は同じく戦時供出でなくなった光雲の彫刻を紹介します。