昨日に引き続き、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しない光太郎彫刻についての紹介です。
青沼彦治像
『青沼彦治翁遺功録』より
大正14年(1925)、これも光雲の代作ということで、光太郎が制作。宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられました。青沼彦治は慶応2年(1866)の生まれ。やはり酒造業を営んでいた素封家でした。地域への貢献も大きく、地元民がその偉業を頌え、銅像建立を発願しました。除幕式は大正14年(1925)11月7日。青沼翁はまだ存命中でした(昭和11年=1936歿)。上の画像で像の右に立っているのが光太郎。左に座っているのが光雲、その後ろはおそらく鋳造を担当した光太郎の弟・豊周(とよちか)です。
後年、光太郎はこの像について「古川から入つたところにある荒雄村に、青柳とかいう人の銅像があつて、これも代作として原型を僕がやつたものだが、これは戦時中に供出してしまつたらしい。これはつまらないもので、なくなつてよかつた。」(「遍歴の日」昭和26年(1951)『高村光太郎全集』第10巻)と語っています。自作でありながら手厳しい評です。
この像について述べた光太郎の文章は、長らくこれしか見つかっていませんでしたが、3年程前に、昭和11年、地元で非売私刊で出された『青沼彦治翁遺功録』という書籍に寄せた序文を見つけました(「光太郎遺珠」④収録)。少し長いのですが紹介します。
わたくしは平素、青沼彦治翁に親炙してゐた者ではなく、先年亡父光雲が、翁の寿像を製作した時、その助手として働いたため、製作の前後に僅かに翁に接する光栄を得たに過ぎない者である。因つてただ、一彫刻家の目に映じた、翁の特徴についてのみその一端を語る事としたい。
翁は決して長身の方ではなく、むしろ小柄であり、且つ肥満しても居られなかつた。さうかといつて鶴のやうに痩せても居られず、程よき比例を全身の均衡に持つて居られたので、すらりとした姿勢が、遠くから望見する時、ともすると長身のやうにさへ見えた。一方の肩が稍撫で肩になつてゐるのが、翁の特徴で其が又大変懐しみある温容となり、いかにも謙虚な魂を示して居られた。しかも第一公式の羽織袴の時の端然さは、まるで仕舞でも舞はれるかと思ふ程であつた。
翁の相貌で誰でもすぐに気のつく事は、頭蓋の人並み以上に大きい事とその方形なる事と、前額の隆い事であつた。整然とした、鼻梁と、秀でた眉と、確乎たる頤との関係は、どうしても蒙古系の骨格とは思はれなかつた。
殊にその二重瞼のいきいきした、聡明な眼光と、愛嬌ある、口唇とは、翁の動いてやまざる精神の若さを表現してゐた。特に異例なのは、耳朶の大きくて強くて張つて居られた事である。かなり多くの肖像製作に従事したわたくしも、翁ほどの大きな、耳朶は見た事は曾つてなかつた。僅かに亡父光雲の耳が此に拮抗し得られるかと思ふ(耳で名高い羽左右衛門の耳は、大きいけれども薄く、故大倉喜八郎翁の如きは、想像以上に小さかつた)。
翁はいかにも物静かな、応対ぶりで会話をせられたが、いつの間にか中々熱心に、細かく周到に話題の中心に迫つてゆくのが常であつた。翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。
亡父は耳が相当に遠かつたし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
其を思へば、感旧の哀しみに堪へ難いが、しかし父はその製作により、翁はその巨大な功績のかずかずによつて、永久に吾等の間に記憶せられる。翁の遺徳の大なるに聯関して、直ちに亡父の遺作を想起し得る事は、不肖わたくしのひそかに慰とするところである。
昭和十一年七月
翁は決して長身の方ではなく、むしろ小柄であり、且つ肥満しても居られなかつた。さうかといつて鶴のやうに痩せても居られず、程よき比例を全身の均衡に持つて居られたので、すらりとした姿勢が、遠くから望見する時、ともすると長身のやうにさへ見えた。一方の肩が稍撫で肩になつてゐるのが、翁の特徴で其が又大変懐しみある温容となり、いかにも謙虚な魂を示して居られた。しかも第一公式の羽織袴の時の端然さは、まるで仕舞でも舞はれるかと思ふ程であつた。
翁の相貌で誰でもすぐに気のつく事は、頭蓋の人並み以上に大きい事とその方形なる事と、前額の隆い事であつた。整然とした、鼻梁と、秀でた眉と、確乎たる頤との関係は、どうしても蒙古系の骨格とは思はれなかつた。
殊にその二重瞼のいきいきした、聡明な眼光と、愛嬌ある、口唇とは、翁の動いてやまざる精神の若さを表現してゐた。特に異例なのは、耳朶の大きくて強くて張つて居られた事である。かなり多くの肖像製作に従事したわたくしも、翁ほどの大きな、耳朶は見た事は曾つてなかつた。僅かに亡父光雲の耳が此に拮抗し得られるかと思ふ(耳で名高い羽左右衛門の耳は、大きいけれども薄く、故大倉喜八郎翁の如きは、想像以上に小さかつた)。
翁はいかにも物静かな、応対ぶりで会話をせられたが、いつの間にか中々熱心に、細かく周到に話題の中心に迫つてゆくのが常であつた。翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。
亡父は耳が相当に遠かつたし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。
其を思へば、感旧の哀しみに堪へ難いが、しかし父はその製作により、翁はその巨大な功績のかずかずによつて、永久に吾等の間に記憶せられる。翁の遺徳の大なるに聯関して、直ちに亡父の遺作を想起し得る事は、不肖わたくしのひそかに慰とするところである。
昭和十一年七月
実際には光太郎の作なのですが、あくまで光雲の名で創られていますので、この文章もそういう内容になっています。それにしても、肖像彫刻を創る際に光太郎が対象をどのように捉えていたのかが端的に表されていて、その意味では一級の資料です。また、翁と光雲の噛み合わない会話のくだりなどは、読んでいて微笑ましいものですね。
長くなったので、一旦切ります。続きは明日。