昨日、高島屋でのバーナード・リーチ展についてお知らせしましたので、光太郎の書いた文章の中から、リーチに関する記述を紹介します。
 
まず、昭和8年に『工芸』という雑誌に発表された「二十六年前」という散文から。
 
ロンドンの名物のひどい濃霧になやませれてゐる時だつたから、むろん冬の事である。多分一九〇七年の十一月頃だつたらう。「ロンドン スクウル オブ アアト」のスワン教授の教室で素描に熱中してゐた私は、性来の無口と孤独癖とから、あまり他の生徒等との交渉を好まなかつたにも拘らず、その学校に於けるたつた一人の日本人の学生であつたところの私に何らかの興味を持つてゐるらしい幾人かの同級生のある事に気がついてゐた。休み時間に私がトルストイの「芸術とは何ぞや」を読んでゐると、後ろからそれをのぞきこんで、「君は彼をどう思ふ」など質問する者もゐた。(中略)或日その背の高い痩せた生徒がたうとう思ひ切つたやうに私に向つて口を切つた。「君はなぜ日本風な素描を描かないのか。」私は即座に返事した。「ヨオロツパの美術家が感ずるものを理解したいと思つて私はヨオロツパに来た。私は今此所で日本画を描かうと思つてゐない。それはずつとあとの事だ。」「なるほど、さうか。私は日本人が此所でどんな素描を描くかと思つて大きな興味を持つてゐたが、実は君の描くものが更に日本風でないので理解に苦しんだ。」私は此の背の高い、鼻の高い、眼のやさしい善良な生徒と、此日以来友達になつた。此がバアナアド リイチだつた。
 
いわゆるジャポニスムの流行はピークを過ぎた時期ですが、リーチは個人的に日本に惹かれていました。昭和26年に『中央公論』に発表された「青春の日」から。
 
リーチが僕のところにやつて来た時、たまたま僕がマンドリンをその頃習つていたので、それをいじつていた。何の気もなく、日本の民謡の「一つとや」をやつたら、リーチはそのメロデイをおれは知つていると言う。いや、これは日本の唄で、君が知るわけはないと言うと、リーチは香港で生れ、小さい時分に京都にも来たことがあるそうで、そのころに聞いたことが分つた。そんなことで、だんだん日本に熱を上げて、どうしても日本へ一度行くと言う。事実、リーチは間もなくそれを実行した
 
そしてリーチは日本で陶芸と出逢い、独自の境地を作り出します。やはり光太郎の「リーチ的詩魂」(昭和28年・『毎日新聞』)から。
 
リーチは焼物を日本で勉強したので、東洋の美はリーチの細胞にまでなつているが、その細胞にはまたリーチの血脈である西洋の美がみなぎつていて、東洋人ではちよつと出せない質がそこにある。器の把手などの面白い扱いはなどはリーチ自身も無意識だろうが、これは確に西洋の美だ。東洋と西洋とはリーチの中にひとりでにとけている。それがまことに愉快である。
 
これこそが国際交流、という気がします。

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バーナード・リーチ 『東と西を超えて 自伝的回想』
バーナード・リーチ著 福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年 より
 
このところ、中韓との領土問題や、シリアでの日本人ジャーナリストの殉職など、国際的な事件が頻発しています。こういう時こそ、国境を超えて東と西の融合を図った先人の業績に思いを馳せるべきではないかと思います。そういうことが「歴史に学ぶ」ということなのではないのでしょうか。