昨日8月6日は広島原爆の日でした。
そこで、昨日のブログでは光太郎が原爆に言及した文章を一篇、紹介しました。
昭和24年3月20日ナカヤジェネラル貿易会社刊行の、広島文理科大学助教授小倉豊文が書いた広島での被爆体験記、『絶後の記録』海外輸出版の序文です。初版は昭和23年11月、中央社の刊行ですが、翌年に刊行された海外輸出版の序文を光太郎が書いています。
その後、調べてみましたところ、小倉宛の書簡で『絶後の記録』に触れたものがいくつか見つかりましたので、関連する部分のみ抜粋して紹介します。
書簡三〇九一 昭和23年(1948)10月2日(『高村光太郎全集』別巻)
「原爆手記」は期待されます。
「原爆手記」は期待されます。
書簡一五〇八 昭和23年(1948)12月10日(『高村光太郎全集』第十五巻)
御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中で読みました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持ちがよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感懐には十二分に共鳴を感じます。またきつと読み返すでせう。これは記録としても貴重な文献です。厚く御礼申上げます。
御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中で読みました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持ちがよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感懐には十二分に共鳴を感じます。またきつと読み返すでせう。これは記録としても貴重な文献です。厚く御礼申上げます。
書簡一五一二 昭和23年(1948)12月15日(『高村光太郎全集』第十五巻)
今夜何度目かの「絶後の記録」繙読を終つたところです。感無量です。村の人たちに御紹介してゐます。せめて英訳でもつくられて、世界の人々に読んでもらつたらいゝと思ひます。
今夜何度目かの「絶後の記録」繙読を終つたところです。感無量です。村の人たちに御紹介してゐます。せめて英訳でもつくられて、世界の人々に読んでもらつたらいゝと思ひます。
ここまでが初版の『絶後の記録』に関する内容でしょう。光太郎、若い詩人達から詩集などを贈られると律儀に返礼を書いていますが、ここまで手放しで礼賛している例は非常に珍しいことです。
書簡三〇九三 昭和24年(1949)1月5日(『高村光太郎全集』別巻)
おてがみをよんで感動しました。
「ノオモア」の為にあの著書を役立てられやうとするお心はよく分かります。小生も一冊でも多く人が読むやうにと念じ、又機会ある毎に人にすすめようと思つてゐます。実際にあの本を読んだら戦争をはじめる気は無くなるでせう。人類は今後大規模の戦争を極限まで避けるやうになる事と考へます。
おてがみをよんで感動しました。
「ノオモア」の為にあの著書を役立てられやうとするお心はよく分かります。小生も一冊でも多く人が読むやうにと念じ、又機会ある毎に人にすすめようと思つてゐます。実際にあの本を読んだら戦争をはじめる気は無くなるでせう。人類は今後大規模の戦争を極限まで避けるやうになる事と考へます。
この時期におそらく海外輸出版の企図を伝えられたのでないかと推測されます。
書簡二八八六 昭和24年(1949)1月27日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
「絶後の記録」再版分をまたお送り下され忝なく存じました。貴下の誓願がだんだん成就してゆくやうに思はれます。この再版分は山口小学校に寄附しましたから此処のみんなにひろく読まれるでせう。御恵贈を感謝いたします。
「絶後の記録」再版分をまたお送り下され忝なく存じました。貴下の誓願がだんだん成就してゆくやうに思はれます。この再版分は山口小学校に寄附しましたから此処のみんなにひろく読まれるでせう。御恵贈を感謝いたします。
書簡二八九六 昭和24年(1949)2月20日(『高村光太郎全集』第二十一巻)
早速今晩書きましたので、明日発行所宛でお送りいたします。其後多くの人が読むやうで喜んでゐます。外国の人々も読めるやうになりさうなお話で尚更よろこびます。まつたくこの本はあらゆる人によんでもらひたいと思ひます。
早速今晩書きましたので、明日発行所宛でお送りいたします。其後多くの人が読むやうで喜んでゐます。外国の人々も読めるやうになりさうなお話で尚更よろこびます。まつたくこの本はあらゆる人によんでもらひたいと思ひます。
これが海外輸出版の序文を書いたことに関わるのでしょう。
書簡三〇九四 昭和24年(1949)3月29日(『高村光太郎全集』別巻)
中央社から再版が届きまして、感謝しました。これには海外輸出版とあるのでアメリカに居る邦人に読めるのはいいと思ひました。英語露語の版も出てアメリカやロシヤの人達にもよめるやうになれば尚いいのだと思はれます。ヒロシマが観光客立寄地になるやうですがただの遺跡見物に終らせたくありません。
中央社から再版が届きまして、感謝しました。これには海外輸出版とあるのでアメリカに居る邦人に読めるのはいいと思ひました。英語露語の版も出てアメリカやロシヤの人達にもよめるやうになれば尚いいのだと思はれます。ヒロシマが観光客立寄地になるやうですがただの遺跡見物に終らせたくありません。
そして光太郎の序が載った海外輸出版が届いた、というわけですね。
小倉本人に宛てたものではありませんが、宮澤賢治の父・政次郎に宛てた書簡では、このように語っています。もともと小倉は宮澤賢治の研究者で、その関連で光太郎や政次郎と面識があった人物です。
書簡一五五四 昭和24年(1949)3月18日(『高村光太郎全集』第十五巻)
小倉豊文氏の「絶後の記録」が大変ひろく読まれるやうでよろこんで居ります。同氏の悲願がかなへられるやうにとおもひ居ります。
今年はオリンピックイヤーということで、昨日のニュースでは原爆の日の扱いが例年より少なかったように感じました。もちろん、ロンドンでの日本人選手の目をみはる活躍を報じることも大切でしょうが、やはり、日本人として、この日を風化させてはならないと思います。