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さて、光太郎自身が異種格闘技戦を行ったという事件。時は明治39年か40年、所はニューヨークの美術学校であるアメリカン・アート・スチューデント・リーグ。対戦相手は同じ学校に通う米国人の若者です。ここからは、光太郎自身の言葉を引用しましょう。
 
クラスの仲間で級長のような仕事をしている男が、僕の作りかけの彫刻に悪戯をして、粘土の腕を逆につけておいたりしてからかうので、ある日、その男の腕を逆に締め上げて降参させたことなどある。そしたら、当時は日露戦争の後で日本の柔道が評判になつていた頃だから、タツク(高村の愛称)は柔道をやるというので、クラスの連中が面白がつて、レスリングをやつたことのある学生と、教室を片づけて試合をやらせようとした。僕は柔道など大してやつたわけではないけれど、仕方がないのでその男と試合をして、どうにか勝つた。僕はアメリカに渡る前に、サンドー体操で鍛えて筋肉も発達していたから、負けるものかという気だつたのである。それから、皆余り僕に悪戯をしないようになつたのは有難かつた。
(「青春の日」昭和26年 『高村光太郎全集』第十巻)
 
高村 (前略)それから夜学へ通つてたけれども、向うの生徒の茶目つてないんですね。みんなモデル写生をやつて、帰りに布で包んでね、明日の晩また来るまで、そうやつとくんですよ。それが開けてみるとね、首がうしろ向きになつてたりする。誰かがいたずらして、知らん顔してるんですよ。みんなの顔見ると、黙つているんだけど、マネージャーがいるんです、そいつがどうも怪しいから、とうとう白状させちやつてね。そうしたら、みんなが仕事台を方附ちやつて、まん中へ広場をこさえちやつて、そこで二人でやれつて言うんですよ。

高見 日米対抗競技ですね(笑声)

高村 向こうはボクシングでやる。こつちは柔道。柔道なんか全然知らないんですよ。そうすると、ぼく
の手がちよつとさわると、ビリビリッてふるえて、手をひつこめるんですよ。

高見 強いと思つて、向うじや恐れたんでしよう。

高村 グッとひつぱると、向うは退くでしよう。ドーンと突くとね、思いきり、ぶつ倒れちやう。そうして二つ
三つ逆手か何かで押えちやうとね、とても大袈裟に参るんです。とうとうしまいにはいたずらしなくなつた、うん。
(対談「わが生涯」昭和三十年 『高村光太郎全集』第十一巻)
 
微妙にディテールの違いがありますが、大筋は同じですね。光太郎、見事に米国学生から、怪しげなサブミッション(関節技)でギブアップを取っています。
 
その秘訣は光太郎自身も語って001いる「サンドー体操」。「サンドー」というのはドイツ人ボディビルダーのユージン・サンドウ。明治30年代に鉄アレイを使っての筋肉トレーニングを考案、これがボディビルの祖となったそうです。「シャーロック・ホームズ」のシリーズで人気を博したコナン・ドイルもこれにはまったとのこと。日本にも伝わっていたのですね。
 
ちなみに、光太郎は身長180㌢以上、当時の日本人としては規格外の体格でした。手足も異常に大きく、手の大きさに関しては色々な人が印象に残っていると語っていますし、足も光太郎自身曰く「13文半」=約32㌢。この体格があって、さらに筋肉も鍛えていたからこその勝利ですね。
 
さて、先述の米国人学生とのバトル、「青春の日」「わが生涯」ともに戦後の回想ですが、戦時中に書かれたものになると、少しニュアンスが異なります。明日はその辺を。