ロンドンでは熱い闘いが繰り広げられています。いろいろな競技がありますが、当方、一応黒帯を持っている関係で、特に柔道を興味深く見ています。以前から言われていることですが、国内の試合とは全く異なるといっても過言ではなく、正直、戸惑う部分もあります。松本薫選手以外金を取れないというのも、ある意味仕方がないのかなと思います。それにしても、連日遅くまで見ているので昼間眠くて仕方ありません。
さて、柔道。光太郎とも無関係ではありません。
光太郎と親交のあった歌人、大悟法利雄氏の回想『文壇詩壇歌壇の巨星たち』という書籍があります。平成10年(1998)6月、短歌新聞社さんの発行です。元は平成2年(1990)~4年(1992)、『短歌現代』という雑誌に連載されたものですが、この中に「高村光太郎」の項があります(今年4月に当方が作成した冊子『光太郎資料37』に掲載させていただきました)。
この中に以下の記述があります。
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
この時の座談が実現されていれば、とても面白いものになっただろうと、残念に思います。ちなみにこの当時、東京オリンピックの前ですから、まだ日本武道館は造られていませんので、柔道全日本選手権は旧両国国技館で開催されていました。
「前田光世」は講道館黎明期の柔道家。光太郎より一足早く柔道使節団の一員として渡米しています(前田、明治37年(1904) 光太郎、明治39年(1906))。親日家でもあったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスで柔道の試合を披露したりもしています。それ以外にも、滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。
ちなみにその後、前田はブラジルにも渡り、柔道の種をまきました。今回のロンドン五輪にもブラジル選手がけっこう出場していますが、こういった背景があるのです。また、前田の教えを受けた現地人が作り出したのが有名なグレーシー柔術です。
光太郎自身の語った内容としては、『高村光太郎全集』第11巻に掲載されている高見順との対談「わが生涯」に以下の部分があります。これは昭和30年(1955)に行われた対談です。
高見 日露戦争の直後ですな。
高村 あくる年くらい。あの時に日本人の柔道家で、何んていつたかな、四段の人が興行して歩いたんです。アメリカをね。あの時は日本人に好意を持つてた時で、その前は排日があつたんです、サンフランシスコだのでね。あの時はルーズベルトの言う事を聞いたというので、日本人に好意を持つてた。ぼくが歩いているとね、なんとかつていう日本人の柔道家とまちがえるんです。なんとかつて名前を呼んだり、ハロー、ジヤツプなんて言うんですよ。
高村 あくる年くらい。あの時に日本人の柔道家で、何んていつたかな、四段の人が興行して歩いたんです。アメリカをね。あの時は日本人に好意を持つてた時で、その前は排日があつたんです、サンフランシスコだのでね。あの時はルーズベルトの言う事を聞いたというので、日本人に好意を持つてた。ぼくが歩いているとね、なんとかつていう日本人の柔道家とまちがえるんです。なんとかつて名前を呼んだり、ハロー、ジヤツプなんて言うんですよ。
ここでは光太郎、柔道家の名前をど忘れしているようですが、「四段の人」という点から、おそらく前田光世のことだと思われます。講道館四天王の一人、富田常次郎や佐竹信四郎という可能性もありますが。
「ルーズベルトの言う事を聞いた」というのは、彼の斡旋でポーツマス条約が締結された事を指しています。
さて、前田の活躍でアメリカでも「日本の柔道は凄い」という認識が広まります。すると、現代でもそう思われている部分があるようですが「日本人はみんな柔道ができる」との勘違いが生じていたようで、光太郎自身が異種格闘技戦を行う、という事件が起こります(史実です!)。その辺りは明日のこのブログで。