ロンドンオリンピックが盛り上がっています。柔道の松本薫選手の金をはじめ、日本選手のメダル獲得数がじわじわと増えてきていますね。
 
さて、オリンピックと光太郎の3回目。
 
『高村光太郎全集』の第13巻に載っている昭和27年(1952)7月19日(土)の光太郎日記には、「夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく」の記述があります。その後も何回か同様の記述が続いています。現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。
 
昭和27年(1952)の夏季オリンピックはフィンランドのヘルシンキでの開催。昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。レスリングフリースタイルバンタム級で石井庄八選手が金メダルを獲得しています。当時は「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。
 
この前年、昭和26年(1951)にはサンフランシスコ講和条約の調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中でのヘルシンキ五輪。自らの戦争犯罪を自ら断罪する意味合いもあって、花巻の山小屋生活を続けていた光太郎は、どのような思いでラジオを聴いていたのでしょうか。
 
この頃の光太郎の動静を見てみましょう。この年3月には、青森県から十和田湖畔に建てるモニュメントの制作を依頼され、6月には現地を視察、7月には東京中野の中西利雄アトリエを借りて制作にあたることが決定、10月には7年ぶりの帰京。そして完成するのが十和田湖畔の裸婦像です。

イメージ 1
(十和田湖畔の裸婦像……最近入手した昔の絵葉書です)
 
日本の国際社会への復帰と時を同じくし、光太郎自身も彫刻界に復帰するのです。講和条約の締結・発効、オリンピックへの復帰などの世相と無関係ではないでしょう。
 
裸婦像完成後は、また花巻に帰るつもりでいた光太郎(家財道具も住民票もしばらくは花巻に残したままでした)ですが、宿痾(しゅくあ)の肺結核がそれを許しません。中野のアトリエで静かに息を引き取ったのは上京から4年後の昭和31年(1956)4月2日。この日を「連翹忌」として現在まで光太郎・智恵子を偲ぶよすがとし、集まりが続けられています。
 
ちなみに4年といえば、オリンピック。つまり光太郎の没した昭和31年(1956)も、オリンピックイヤーですね。この年は11月から12月にかけ(南半球ですから)メルボルンでオリンピックが開催されました。光太郎、空の上から日本人選手の活躍を一喜一憂しながら見守っていたのかも知れません。