昨日、ベルリンオリンピック関連の光太郎の発言を紹介しました。
その後、気になって調べてみましたところ、オリンピックと光太郎の関連がいくつか出てきました。
まず、現在、ロンドンオリンピックが開催中ですが、ロンドンでのオリンピックは3回目。前回は終戦後の昭和23年(1948)。そして、最初にロンドンでオリンピックが開催されたのは明治41年(1908)。短期集中型でやっている今のオリンピックとは違い、会期が半年にも及んでいました。開会式が4月27日、閉会式が10月31日です。半年も続いていたというのは、どんなものだったのか、ちょっと想像がつきません。
さて、明治41年といえば、光太郎はちょうどロンドン滞在中でした。
光太郎は、明治35年(1902)に東京美術学校彫刻科を卒業した後も研究科に残り、明治37年(1904)にはロダンの「考える人」を写真で見て激しい衝撃を受けます。根底から勉強し直そうと、翌38年(1905)には東京美術学校西洋画科に再入学(教授に黒田清輝や藤島武二、同級生に藤田嗣治や岡本一平。すごいメンバーです)。しかし「君は彫刻に専念すべきだ」という、彫刻科教授岩村透の勧めで、明治39年(1906)から、3年あまりにわたる留学に出ます。
まず目指したのはニューヨーク。1年あまりの滞在の後、大西洋を渡ってロンドンに向かったのが明治40年(1907)6月。ちなみに最近見つけた「海の思出」という散文があるのですが、それによればこの時の航海は、後にかのタイタニック号を保有するホワイトスターライン社の船、おそらくオーシアニック号での航海でした。
それから翌41年(1908)6月、パリに移るまでのまる1年、ロンドンに滞在します。最初のロンドンオリンピックはこの年4月27日が開会式。まさに光太郎がいた時期です。
ただ、この当時書かれた作品、後に往時を回想して書かれた作品等をざっと調べましたが、残念ながらオリンピック関連の内容は発見できませんでした(細かく探せばあるかも知れません)。光太郎の住んでいたチェルシーと、メイン会場だったホワイトシティ・スタジアムは直線距離にして2㎞ほどだったのですが。
もっとも、日本人選手の参加もありませんでしたし(日本人選手の参加は大正元年=1912のストックホルム大会から)、この時点ではまだオリンピックというもの自体が一般的でなかったのかも知れません。
光太郎とオリンピックの関わり、まだあります。明日も続けます。