昨日は、既に他の雑誌等に発表された文章が転載されている例を紹介しました。今日は逆のパターンです。すなわち、既に『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に収録されているものの、その内容や情報が転載されたものに基づいている場合です。
具体例を挙げましょう。
昭和17年(1942)に書かれた「天川原の朝」という散文があります。その前年、真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇で出撃し、還らぬ人となった「軍神」岩佐大尉(没後二階級特進で中佐)の生家(群馬)を訪ねたレポートです。
『全集』では第20巻に掲載されています。そして『全集』第20巻の解題では、昭和17年5月31日発行『画報躍進之日本』第7巻第6号が初出となっています。しかし、さかのぼること約2ヶ月、同年4月6日発行の『読売新聞』に同じ「天川原の朝」が掲載されていることが、新たにわかりました。こうなると、『全集』の解題を訂正しなければなりません。
『全集』では第20巻に掲載されています。そして『全集』第20巻の解題では、昭和17年5月31日発行『画報躍進之日本』第7巻第6号が初出となっています。しかし、さかのぼること約2ヶ月、同年4月6日発行の『読売新聞』に同じ「天川原の朝」が掲載されていることが、新たにわかりました。こうなると、『全集』の解題を訂正しなければなりません。
こういう例はいくつかあり、判明したものは「光太郎遺珠」に記録、公にしています。
それぞれ作品名、『全集』解題での初出誌、新たに判明した掲載誌の順です。
・訳書広告ヹルハアラン『明るい時』大正10年(1921)12月1日『白樺』第12巻第12号 同年11月10日『東京朝日新聞』
・山本和夫編『野戦詩集』昭和16年(1941)4月20日『歴程』第14号 同年2月26日『読売新聞』
・訳書広告ヹルハアラン『明るい時』大正10年(1921)12月1日『白樺』第12巻第12号 同年11月10日『東京朝日新聞』
・山本和夫編『野戦詩集』昭和16年(1941)4月20日『歴程』第14号 同年2月26日『読売新聞』
これらは内容的には同一ですので、初出掲載誌さえ訂正すればよいものです。
ただし、それすらもさらに訂正されるべき場合があるかも知れません。例えば「天川原の朝」にしても、4月6日に『読売新聞』に掲載されるより前に、他のマイナーな雑誌などに発表されている可能性も皆無ではありません。
それを言い出すと、現在登録されている初出掲載誌の情報は、ほとんど全て「推測」でしかないということになります。我々は「現在判明している初出誌はこれです」というスタンスで作品の解題を書いています。でも、それはあくまで「現在判明している」であって、確定ではないものがほとんどです。例外は、光太郎自身が書簡や日記、散文等で「いついつに『○○』という雑誌に発表した「××」という作品で……」のようなコメントをしっかり残している場合のみです。それすらも光太郎の勘違いがあったらおしまいです。まぁ、そこまで問題にしたらきりがありませんが……。
学者先生達はとかく「出典を明らかに」とのたまいますが、現在判明している典拠はこのように推測に過ぎぬ不確定なものであるということを認識してほしいと思います。それがどんなに有名な作品であっても、です。例えば「明治43年(1910)4月、我が国で初めての「印象派宣言」が世に出た。『スバル』第2年第4号に掲載された「緑色の太陽」である。」などという文言を目にすることがありますが、こういう場合も『スバル』に載った「緑色の太陽」が他の雑誌からの転載ではないとは断言できません。軽々に「初出」の語を使うのは避けるべきでしょう。
自戒を込めてここに書き記します。
「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。明日はそのあたりを。