世に知られていない作品をどうやって見つけるか、という話を延々と続けてきました。今日はお願いです。
八方手を尽くしていろいろと見つけ続けていますが、中には存在がわかっていながら見つからないものもかなりあります。ソースは『高村光太郎全集』の年譜や解題に書かれている情報、北川太一先生や他の方に聞いて知った情報、古い雑誌に書かれていた情報などです。
②書簡「あめりかよりの書簡二通」明治44年2月? 雑誌『秀才文壇』掲載
③散文「感想断片」明治45年4月? 雑誌『秀才文壇』掲載
④散文?「皮肉屋と言ふ事は卑怯者と同じだ」大正2年4月? 雑誌『新文林』忠誠堂
⑤翻訳「フアン ゴツホの手紙(三)」同
⑥詩?「その午後に」大正2年5月 雑誌『水鴬』創刊号
⑦表紙画 雑誌『鉄針』大正3年1月 俳句雑誌
⑧散文?「文章座右銘」大正2~3頃 雑誌『中央文学』聖書の文句を仏蘭西語で紹介
⑨翻訳「テーンの芸術論」大正10年4月
⑪翻訳「栗色の顔をした野の若者よ」昭和2年1月 雑誌『太陽花』第2巻第1号 太陽花詩社 ホイットマン詩
⑫題字 雑誌『巨木』昭和3年6月
⑬散文?「生活の光彩」昭和15年5月 雑誌『オール女性』第8巻第2号
⑭題字 雑誌『詩層』昭和18年 (見つかりました)
⑮題字 雑誌『山脈』昭和24年頃
⑫題字 雑誌『巨木』昭和3年6月
⑬散文?「生活の光彩」昭和15年5月 雑誌『オール女性』第8巻第2号
⑮題字 雑誌『山脈』昭和24年頃
題名や掲載誌名、時期には多少のずれがあるかも知れませんし、結局掲載されずに終わったとか、単純な勘違いとかいうこともあるかもしれませんが、上記に関して何か情報のある方は御教示いただければ幸いです。
⑪の、翻訳「栗色の顔をした野の若者よ」に関し、信じられないようなエピソードがありますので、ご紹介します。数年前、掲載誌の雑誌『太陽花』第2巻第1号が、横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館に所蔵されていることをつきとめ、意気揚々と閲覧に行きました。所定の続きをし、係員の方に書庫から出してきていただき、手に取りました。まずは目次のページを見ますと、確かに「栗色の顔をした野の若者よ」高村光太郎訳という記述があり「よし!」と心の中で快哉を叫びました。ところが、ページを繰っても見つかりません。よく見ると、なんと、問題の「栗色の顔をした野の若者よ」が載っているはずのページだけが破り取られているのです。諦めきれず、係員の方に破れているページだけ他に保管していないかなど聞いてみましたが無駄でした。こういうこともあるんですね……。
ちなみに当方の生活圏にある銚子市青少年文化会館のロビーに、郷土の偉人を紹介するコーナーが作られています。その中で銚子出身の詩人・宮崎丈二も取り上げられており、光太郎から宮崎宛の書簡が4通ほど展示されています。その中の一通は『全集』第21巻に収められた大正15年(1926)11月16日付けの書簡番号2426ですが「太陽花への原稿を忘れないうちにあなたまでお届けして置きます。なるたけ短いものを選びました。」という一節が。しかも封筒には(原稿在中)の文字まで。まさしくこの「栗色の顔をした野の若者よ」の原稿とともに送られた書簡と思われます。銚子市青少年文化会館、時折用事があっていくのですが、そのたびこの書簡を見て神奈川近代文学館での苦い体験を思い出します。
こうした因縁もあり、「栗色の顔をした野の若者よ」、絶対に見つけてやる!と心に誓っています。
2014/4追記 上記光太郎書簡の展示は2014/4現在、無くなっていました。
上記で挙げた他の作品も是非見つけたいと思っていますので、ご協力よろしくお願いいたします。