昨日は花巻の高村祭に参加、先程帰宅いたしました。三回に分けてご報告いたします。
まず今回は高村祭そのものに関して。
そもそも高村祭とは何ぞや? なぜ5月15日なのか? ということになりますが、事の起こりは昭和20年(1945)。4月13日の空襲で、東京千駄木にあった光太郎のアトリエは焼け落ちてしまいました。光太郎はしばらくは近所の姻戚に身を寄せていましたが、花巻の宮澤家からの誘いで、花巻に疎開することにしました。そのために東京を発った日が5月15日。その日から約七年半、光太郎は生活の拠点を花巻に置いたのです。
はじめは花巻市街の宮澤家に身を寄せた光太郎ですが、その宮澤家も終戦間際の8月10日にあった空襲で焼け、その後は元花巻中学校長・佐藤昌氏のお宅や、花巻病院長・佐藤隆房氏のお宅にそれぞれ1ヶ月ほど滞在、10月になって花巻西方の太田村山口(現・花巻市太田)に移り住みます。その後七年間、山口地区での生活を続けるのです。このあたりの経緯は佐藤隆房著『高村光太郎山居七年』(財団法人高村記念会・初版昭和37年=1962、増補版同47年=1972)などに詳しく描かれています。
光太郎と山口地区の人々とは心温まる交流を続け、地区の人々や元花巻病院長・故佐藤隆房氏を中心に作られた財団法人高村記念会が中心となり、光太郎没後、昭和33年から光太郎の遺徳を偲ぶ日として、5月15日を高村祭と定め、花巻市や観光協会などの共催を得て続けられ、今年で55回目の高村祭ということになりました。
例年は光太郎が起居していた小屋に近い屋外で行われるのですが、今年はあいにくの雨。廃校となった旧山口小学校が建っていた場所に作られたスポーツキャンプむら屋内運動場での開催となりました。
プログラムに拠れば、光太郎遺影への献花・献茶、主催者挨拶 、地元の太田小学校・西南中学校・花巻農業高校・花巻高等看護専門学校の児童生徒による楽器演奏・合唱、光太郎詩の朗読などがありました(実は当方、朗読の途中で会場にたどり着きました)。
その後は特別講演。講師は盛岡大学・同短期大学部学長、国際啄木学会会長の望月善次氏。演題は「光太郎と啄木・賢治」ということで、同じ時代を生きた岩手ゆかりの三人のつながりを分かりやすく語られました。
昼食をはさんでアトラクション。トップバッターは連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さんでした。今年の連翹忌で岩手高村記念会の皆さんから是非にというお誘いを受けてらしたそうです。「赤とんぼ」はじめ4曲、それからオペラ「智恵子抄」の一節などもご披露されました。続く地元の方が、光太郎作詞の国民歌謡「歩くうた」を歌われたのには驚きました。
会場内には何気に貴重な資料が展示されていました。光太郎がデザインの案を出した校章を染め抜いた旧山口小学校の幔幕、やはり光太郎がデザインの案を出したという山関青年会の旗など。ちなみにこの幕、光太郎の詩集『典型』が読売文学賞に選ばれた際の賞金を光太郎が寄贈し、出来たものだそうです。(このあたりの経緯は浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』平成7年=1995 ひまわり社 などに詳しく語られています)
こうした地域に密着した活動がなされているのは、本当に有り難いことです。今回の世話役的な方々も、お名前を聞けば光太郎日記に出て来る誰々さんのご子息とか、子供の頃に実際に光太郎にかわいがってもらった方とか、そういう方々がこうして光太郎顕彰の活動に粉骨砕身されている姿には感動を覚えます。
二本松での智恵子顕彰活動もそうですし、穂高での碌山忌もそうですが、やはりそれぞれの地元の方々の力というのは大きいと思います。我が連翹忌、東京で行っていますが、東京だと光太郎の地元という意識が薄く、本当に光太郎と密接なつながりがあった人々や、当方のような光太郎ファンでなければ顕彰活動に積極的に取り組むという気風がありません。言い方は悪いのですが、東京はたくさんの偉人を輩出しているのに対し、二本松といえば智恵子、穂高といえば荻原守衛、そして花巻といえば宮澤賢治と光太郎、そういう限定が好い意味で作用していると思います。東京といえば光太郎とはとてもいえませんし、もっと限定して文京区といっても森鷗外やら夏目漱石やらいろいろ出て来てしまいますし……。
とにもかくにも花巻の高村祭、今後とも盛況のうちに続いていくことを願ってやみません!