10月23日(日)、『東京新聞』さんの埼玉版から。

「浦和画家」近藤洋二に脚光 遺族所有4作品、うらわ美術館に収蔵 川越の藤井さん「魅力、再び伝えたい」

002 昭和の初め、芸術の都パリに憧れて、妻子を連れて日本を飛び出した埼玉の画家がいた−。川越出身で「浦和画家」としても名が残る近藤洋二(一八九八〜一九六四年)。地元の縁で画家を知った川越市の女性が「こんな面白い人生があったとは」と関係者を訪ね歩き、長年遺族が所有していた四作品が、うらわ美術館(さいたま市浦和区)に収蔵されることになった。
  「お金もないのに、妻と生後十一カ月の長男を連れて上海行きの船に乗り込んだ。金が尽きると絵を描いて稼ぎ、さらに先へ進んだ。それでパリまで行っちゃったんですよ」。そう語るのは、川越市の町雑誌「小江戸ものがたり」編集発行人の藤井美登利さんだ。
 藤井さんは、地元で「旧制川越中学を卒業した絵描きがいた」という話を聞いて興味を持ち、調べ始めた。資料を読み込む過程で、長男の近藤乃耶(のや)さん(故人)が書いた評伝「『偉い人』にならなかった絵描きの生涯」(東宣出版、現在は絶版)を手にした。画家の魅力的な逸話や数多くの著名人との交流が記され、ぐいぐいと引き込まれた。
 明治生まれの近藤洋二は、医大に進むはずだったが父が急死し、家計を助けるために働きながら画家を目指すように。パリで絵を描きたいと二八年、上海までの片道切符を手に親子三人で船に乗り込んだ。詩人の金子光晴夫妻とも一時同道。近藤一家の姿は、金子の「どくろ杯」という小説に登場する。上海からインド、イタリアなどを経て翌年、フランスへ到着した。
   当時のパリ画壇ではピカソや藤田嗣治らが活躍していた。だが、近藤は生活が厳しく美術学校に入れず、毎月三十枚以上、ひたすら絵を描き続けた。ついに滞在費が尽きて帰国する船で、日本郵船の船長が三等船室だった親子を貴賓室に移してくれた。「当時の外国航路の船長は高給取りで、大勢の若い画家を援助していた」と藤井さん。このとき同じ船に乗っていたのが、作家宮本百合子の実家、中条家の人々だった。その縁で、近藤一家は帰国後、都内の屋敷町にある中条家の離れに住んだ。戦時中、百合子の夫顕治は刑務所に拘留されていた。向かいは詩人の高村光太郎宅。高村は警防団長で、兜(かぶと)をかぶって棒を振り回し、空襲の火を「消せ!消せ!」と怒鳴っていた−と本には書かれている。
 藤井さんは「画家の情熱と、おおらかな時代の空気に魅了された。生前は人気があったが、埋もれてしまったその魅力を、再び伝えたいと思った」と語る。多作だった近藤は、穏やかな風景画を数多く描き、今回収蔵した作品にも、雪に埋もれる集落や、欧州の道を自転車が走るのどかな光景が描かれる。六十六歳の時、散歩中にバイクにはねられて急逝した。「ただ死ぬまで毎日毎日、次々に楽しそうに描いて描いて描きまくっていて、それが父の生きがいであり、喜びであった。およそ賞だとか名誉だとかに無関心だった」と乃耶さんは記す。
 うらわ美術館では、一般公開に向けて修復や調査を進めている。近藤の甥(おい)で川越市在住の近藤繁さん(85)は「いつもパイプをくゆらせ、もの静かな人だった」と生前を振り返り「生きていたころの記憶がある人はどんどんいなくなる。作品が収蔵され、これからも見てくださる方がいると思うと、うれしいです」と話している。
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近藤洋二という画家、『高村光太郎全集』の二箇所に名前が出て来ます。

まず、「式場莞爾詩集「海の星座」序」(昭和30年=1955)。

 昔の隣組仲間の近藤洋二画伯のむすこさんは立派な海員になつて今休暇で東京にきている。そのむすこさんの友達だという式場さんは海員組合の仕事をしている海洋詩人だとの事だ。この三人の人にあつて海員生活の話をしているうちに、海の好きな私は、いつのまにか、式場さんの海の詩集に序文をかくようなきつかけを持つようになつてしまつた。一面識もなかつた人の詩集なんだが、それが海員の助け合い運動の何かになるというだけきいても多分気持ちのよい詩集だろうと思えた。何にもいう事がないので今から丁度五十年前に私が太平洋のまん中でアゼニヤンという船にいて作つた歌を二つ書いておく。

  海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと
  地を去りて七日十二支六宮のあいだに物の威をおもい居り


もう一箇所は、昭和30年(1955)12月9日の日記。

 近藤洋二氏他二人くる、

どちらも同じ年なので、「他二人」が近藤の子息と式場なのでしょう。この日の出来事が『海の星座』序文に書かれていると見て間違い有りますまい。

それにしても、近藤洋二という画家の詳細については、東方、寡聞にして存じませんでした。子息が書かれ、光太郎にも言及されているという『『偉い人』にならなかった絵描きの生涯』も存じませんでした。調べてみましたところ、国会図書館さんに所蔵がありますので、いずれ見てみます。

ちなみに「浦和画家」は、関東大震災後、浦和に居住する画家が多かったことから彼らの総称として生まれた語です。有名どころでは、倉田白羊、須田剋太、瑛九など。「うらわ美術館」さんは、さいたま市立だそうで、こうした地元作家の作品等の収集にも力を入れているようです。大事なことですね。近藤作品、公開されたら観に行ってみようと思いました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后奥平さんくる、 三時辞去後風呂に入る、三月ぶりの入浴、


昭和29年(1954)8月21日の日記より 光太郎72歳

5月頃からだいぶ体調を崩し、外出もままならなくなって、一日ベッドで過ごす日もありましたので、入浴もしていませんでした。もっとも、昭和20年(1945)から7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中も、村人らの好意で鉄砲風呂を贈られたものの、薪を大量に使わねばならず、そのため入浴をほとんどしませんでした。その分、温泉に足を運ぶ機会が多かったのですが、上京後は近くに温泉もなく、また、銭湯に行ったという記述も見当たりません。当然、タオルで身体を拭いたりはしていたとは思うのですが……。