明日開幕、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品展示ですが、光太郎も関連します。

彫刻家 高田博厚展2022

期 日 : 2022年10月19日(水)~11月10日(木)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5-2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 無料

東松山市では高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品やデッサン等を、2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は高田作品の展示に加え、市内在住の人気イラストレーター絵子猫さんと高坂彫刻プロムナードのコラボ企画をご用意しました。ぜひこの機会に「東松山市の芸術の秋」をご堪能ください。

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過去の同展の様子はこちら。

  平成30年(2018)  令和2年(2020)  

関連行事等

同時開催 探検!高坂彫刻プロムナード~スリーデーマーチと並ぶもう一つの宝物~

高坂彫刻プロムナードに立つ、高田博厚ゆかりの著名人たちのエピソードをもとに市内中学生、高校生が紙芝居を制作しました。この紙芝居をご覧いただき、その後、その銅像をスケッチをしました。描いていただいた絵は、東松山市民文化センターで展示します。
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高坂彫刻プロムナード」は、高田の作品群が屋外展示されている、東武東上線高坂駅前から延びる通りです。同市の元教育長であらせられ、生前の光太郎と交流のおありだったた故・田口弘氏が、昭和40年(1965)に、当会主催の連翹忌の集いで高田と意気投合。以後、高田の個展や講演会を同市で開催するなど親交を深め、その集大成的に昭和61年(1986)~平成6年(1994)にかけて整備されました。光太郎胸像を含む全32体の高田作品から成ります。

その「高坂彫刻プロムナード」を市民の皆さんが描くというイベントが9月24日(土)に開催され、作品の展示が行われます。光太郎胸像を描いたものもあるんじゃないかな、と思い、拝見に伺うことにしました。

もう1件。

特別講演会「絵子猫さんと高坂彫刻プロムナード」

イラストレーターとして第一線で活躍する絵子猫さんに、幼少時代のお話や幻想的で夢のような作品はどうやって生まれるのかなどを伺います。また、身近なアートの楽しみ方についても教えていただきます。
日時:令和4年10月22日(土曜日)午後2時から午後3時30分まで
会場:市民文化センター 大会議室
対象:小学生以上(小学生は保護者同伴)市内外問わず
定員:80名
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫(エコネコ)さんの講演会。こちらも「高坂彫刻プロムナード」がらみです。

どうせ東松山まで行くならこの日に合わせようと思い、講演会に申し込みました。定員80名、抽選だそうで、外れたとしても裏技で伝手(つて)を頼れば(当方、毎年、同市で市民講座の講師を務めさせていただいたりしておりますので)関係者枠で入れてくれるだろうと思っておりました。ズルですが(笑)。で、昨日、当選の通知、というか「当講演会は定員80人に達しなかったため、抽選は実施しませんでした。そのため、お申込みいただきました皆さまは当選となります。」とのこと。裏口入学ならぬ裏口入場をしなくて済みました(笑)。さらに「なお、講演会には空きがまだございますので、お近くにご興味がある方がいましたら、お声がけいただければ幸いです。」だそうですでので、この場を借りてご紹介いたします。お申し込みはこちら

案内に使われている絵子猫さんのイラスト、「高坂彫刻プロムナード」の高田彫刻をお描きになったものです。
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共に女性像ですからそんなでもありませんが、ブロンズ彫刻にはどうしても「武骨さ」が伴います。しかし、こうしてキラキラのイラストになると、なんともイメージが変わりますね。

このタッチで光太郎胸像をお描きになったとしたらどうなるんだろう、と興味深いものがあります。既に描かれているのかも知れませんが。
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となると、光太郎彫刻の数々も、ぜひ描いていただきたいものです。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などはいい感じになりそうですし、同じくブロンズの「裸婦坐像」や木彫の「白文鳥」なども面白く出来そうです。しかし、光太郎の父・光雲の「老猿」や「仁王像」などだとどうなってしまうのだろうなどとも思いました。

というわけで、東松山市高田博厚展2022、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方大川先生くる、ストマイ注射、脈高し、 夜に入りて高熱出らしく、せきもつよく、呼吸困難、悪寒手足のふるへくる、クロロマイセチン3錠、ネオフイリン2のみ、ややおさまる、


昭和29年(1954)7月7日の日記より 光太郎72歳

宿痾の肺結核は、確実に光太郎の命を削っています。ただし、この後、かなり持ち直しては行きますが。

こんな状態で日記を書いてる場合じゃないだろ、と突っ込みたくなりますが、亡くなる3日前の昭和31年(1956)3月30日まで、日記は続けられます。よほど具合の悪かった日は書かなかったようですが、それでも小康状態になると、遡って書いています。この日の分もそうかもしれません。

大川」は誤記で、正しくは「大気」。「チーム光太郎医師団」の一人、大気(おおき)寿郎医師のことですが、名前を誤記したり「高熱出たらしく」の「た」が脱字になったり、痛ましさを感じます。