当会で会報的に発行している冊子『光太郎資料』の第58集が完成し、関係先には発送が終わりました。

元々は当会顧問・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として第36集まで不定期に発行されていて、その後休刊状態だったもの。平成24年(2012)の第37集からその名跡を譲り受けました。題字は北川先生作の木版から採っています。4月の連翹忌、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

B5判ホチキス留め、49ページ。今号の内容は以下の通りです。

・ 「光太郎遺珠」から 第二十二回 「婦人」(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめています。前号から婦人雑誌に載った光太郎作品、「婦人」をテーマに書かれた光太郎作品を載せました。

 座談 新女性美の創造 昭和16年(1941)1月20日~2月14日の『読売新聞』婦人欄に断続的に15回にわたって掲載された座談会筆記録です。
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光太郎以外の出席者は、西田正秋(東京美術学校助教授)、吉田章信(体育研究所技師、文部省体育官、医学博士)、豊島与志雄(フランス文学研究家、作家)、竹内茂代(医学博士)、宮本百合子(作家)でした。

太平洋戦争開戦の年の1月、日中戦争は膠着状態に陥っていた時期でしたので、翼賛的な発言も目立ちますが、女性も旧時代の旧弊に囚われず、健康的な美を身につけるべし、といった内容になっています。

散文 新しい女性美 昭和18年=1943 1月1日発行『青年』第28巻第1号 女子版新年号から。上記「新女性美の創造」ともかぶる(やはり翼賛的な内容も含む)女性美創出への提言です。

少し引用しますと、

 ふるい俗悪な社会意識の滓(かす)は完全に取り去られねばなりません。何でも見た眼に一寸きれいに見えるものを飾り立てて美だと思ふやうな低級な気持ちは棄(す)てねばなりません。流行を追ひ、流行に左右せられて、(つまり営利資本に左右せられて)結局無駄(むだ)な苦心をして天下の資材を空費するやうな愚かな事は止めねばなりません。美が生ずる根源は必要にあります。必要によく適つたものからは必ず美が生まれます。
(略)
 女性の服装や化粧にしても、「必要にして十分」なものが一番美しいのであつて、不必要な無駄なものをたくさん身につけたものは醜なのであります。それゆゑ職場のきりりとした仕事着は見る眼もすがすがしい美であり、野良で働く時の野良着(のらぎ)はこれ亦比類もない美であります。その事に十分自信を持つべきです。遊惰(いうだ)の象徴のやうなぴらぴらした長い袖や、酒樽(さかだる)の箍(たが)のやうな厚い重い帯は決して美ではありません。少くとも眉をひそめさせる類の美であります。それを立派な美だと思つてゐた時代もあつたのはその時代が病的であつたからに過ぎません。
 
なるほど。

縄田林蔵詩集『日本の母』序 昭和18年8月執筆。縄田は岡山県出身の詩人です。詩集『日本の母』は、春陽堂から刊行された『日本の母』(昭和18年=1943 日本文学報国会編)――軍人援護会の49府県支部から推薦された「日本の母」を、光太郎を含む49人の文学者が訪問して書かれたもの――の内容を縄田が叙事詩にしたものですが、結局未完に終わったようです。

・ 光太郎回想・訪問記 桐後亭日録より「高村光太郎の罹災」(抄)野田宇太郎
詩人・評論家・編集者の野田宇太郎が自身の過去の日記を引用し、その前後の様子を捕捉した『桐後亭日録 灰の季節と混沌の季節』(昭和53年=1978 ぺりかん社)から、昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれ、近くにあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎を訪問した際の部分です。その後、光太郎は宮沢家の誘いで花巻に疎開することとなります。

・ 光雲談話筆記集成 たゞ仕事に没頭
光太郎の父・光雲が残した談話筆記は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣書房)などにまとめられていますが、それに収められなかった談話筆記がさまざまな書籍・雑誌等にも載っており、それらを拾い集めています。今号では昭和3年(1928)文海書院発行、田中正雄著『回春長寿生の喜び』より。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた光雲を含む各界著名人の体験談等が掲載されています。他に渋沢栄一、高橋是清など。

他のものもそうですが、光雲の談話はとにかく落語のようで面白いものです。特にこれは、暴飲暴食をやめて健康になった話や、自身のいびきがひどい話など、笑えます。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第二十二回  川治温泉(栃木県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今号は川治温泉。
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記録に残る光太郎の川治温泉訪問は、昭和13年(1938)の11月。前月には最愛の妻・智恵子が南品川ゼームス坂病院において、粟粒性肺結核のため数え53歳でその生涯を閉じています。智恵子の付き添いを務め、ゼームス坂病院で共に起居していたのは、当時の「一等看護婦」の資格を持っていた智恵子の姪・春子。その労苦の慰安を目的に、春子を連れて川治を訪れたことが、春子の回想に書かれています。

005・音楽・レコードに見る光太郎  第二十二回  ぼろぼろな駝鳥 弘田龍太郎
光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)に、弘田龍太郎が曲を付け、昭和18年(1943)にレコード化された歌曲について。弘田は「靴が鳴る」「雀の学校」「春よ来い」などの童謡作品が有名です。弘田の「ぼろぼろな駝鳥」は、正確な作曲年が不明で、公刊された楽譜も見あたらないのですが、情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

2024.6追記 昭和34年(1959)、音楽之友社刊行の『弘田竜太郎作品集 第3巻』に楽譜の掲載を確認しました。

・高村光太郎初出索引(年代順)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正10年(1921)から同12年(1923)までに初出があったものを掲載しました。

006ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

午前机の前にてメマヒをつよく感じる、空気の為らしく、窓を明け、ガラス戸をあけたら直る、

昭和29年(1954)5月2日の日記より 光太郎72歳

「メマヒ」は眩暈(めまい)です。いよいよ光太郎の体調が深刻になりつつあります。