新刊です。
中央公論新社刊 定価2,200円+税
自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。
当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。
平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。
内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。
光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。
そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。
米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。
平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。
その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。
また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、
「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。
一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。
新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。
「流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。
2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。
平櫛田中回顧談
2022年9月10日 平櫛田中著 聞き手:本間正義 小平市平櫛田中彫刻美術館編中央公論新社刊 定価2,200円+税
自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
目次
刊行にあたって 平櫛弘子
1 生いたち
2 大阪と中谷一家
3 奈良と森川杜園
4 東京に出る
5 禾山和尚
6 長安時の生活
7 茶屋町の生活
8 米原雲海と山崎朝雲
9 岡倉天心と日本彫刻会
10 岡倉天心の思い出
11 日本美術院の再興
12 上野桜木町の家とその頃の諸作
13 二児を失う
14 色々の天心像
15 素材と用具と伝統技法の復活
16 帝展参加と“霊亀随”
17 肖像彫刻
18 鏡獅子の制作
19 六代目の手紙
20 第二次鏡獅子の制作と弟子達
21 美術学校に勤めた頃
解説
掲載作品一覧
年譜
光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。
当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。
平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。
内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。
光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。
そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。
米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。
平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。
その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。
また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。
ぜひお買い求めを。
【折々のことば・光太郎】
ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、
昭和29年(1954)4月21日の日記より 光太郎72歳
「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。
一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。
新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。
「流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。
2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。