昨日の続きで、高橋源一郎氏著『ぼくらの戦争なんだぜ』(2022年8月30日 朝日新聞出版(朝日新書) 定価1,200円+税)についてです。
ちなみに同書、二重カバーとなっており、昨日は外側カバーの画像をあげましたが、こちらは内側のカバーです。
光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』。殆どの収録作品が高橋氏曰くの「大きなことば」(人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われる)で書かれています。
それに対し「小さなことば」(個人が個人的なことを書いて伝える)で書かれたアンソロジーも取り上げられています。山本和夫編『野戦詩集』(昭和16年=1941)。『詩集 大東亜』と異なり、実際に応召して日中戦争の戦闘に参加した詩人-それもマイナーな-6人による作品集です。6人は加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫。このうち西村は昭和19年(1944)に戦死しました。また、光太郎と交流のあった長島は、迫撃砲弾を受け、左目を失明しました。
6人の詩はいずれも戦闘の様子をを勇ましく謳ったものではなく、野戦病院での一コマや、炎熱下の行軍の苦しさなどを題材にしています。中には厭戦的ともとれるものも。「翼賛」思想の殆ど見られないこれらの「小さなことば」にこそ、芸術としての真価があると、高橋氏。なるほど、と思わされました。
ところで、『野戦詩集』、その帯には光太郎の推薦文が印刷されていたそうです。当方も現物は確認出来ていませんが。同一の(と思われる)文は昭和16年(1941)2月26日の『読売新聞』に掲載されました。
支那事変に出征してつぶさに実戦の労苦に身を委ねた詩人の数も多いので、その詩人達の声をききたいとは誰しも思ふところであるが、丁度その希望に応へるやうにこの詩集が刊行せられた。集められたのは加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫の六氏の戦場詩である。大方は或は無事に、或は負傷して今は故国に帰還せられたのであるが、西村、風木の両氏はいまだに任務につかれて戦場にゐる。いづれの詩も皆戦闘の合間に野戦手帳や紙きれに書き付けられたものであつて、雨にぬれ汗によごれたものの中から抜書きされたものも多いやうである。さすがに詩人の個性は歴然として明かで同じやうな苦痛と死との中からも六氏それぞれの詩の世界は同様でなく、同じ緊張の中にもその人間観世界観の向き方によつてそれぞれの表現内容と発想形式とに特殊性を持つてゐて、決して一様の類型を示してゐない。かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出てその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。殆ど吃つてゐるやうな言葉遣さへあるがそれが又逆にその奥の実感を伝へてゐる。これを見ても人間の言葉はやはり信頼し得べきものだと思はずにゐられなかつた。こんな苦しい中で詩を書きおほせたこれらの詩人の精神に打たれた。
「大きなことば」で翼賛詩を書かざるを得ない立場にあった光太郎も、「小さなことば」で書かれたこのアンソロジーの本質を鋭く見抜いていることが分かります。
残念ながら『ぼくらの戦争なんだぜ』では、この光太郎の評について言及されていません。高橋氏が入手されたという『野戦詩集』、帯が無くなっていたのでしょう。高橋氏によるこの評の「評」を読みたいものだと思いましたが。
その後、高橋氏の筆は、大岡昇平、林芙美子ら、そして太宰治へと続いていきます。特に太宰の項には力が入っており、さらに今後も書き継がれるおつもりだとのこと。
ところで、『東京新聞』さんに同書の書評的な記事が出ていました。
さて、同書、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
平凡社の中島洋典といふ人くる、書道全集推せん文のこと、
「推せん文」は、「書を見るたのしさ」の題で、平凡社の「書道全集」の内容見本に掲載されました。同全集には、のちに第7巻「中国 隋、唐Ⅰ」の月報にも「黄山谷について」の一文を寄せています。
戦時中の翼賛詩文を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送っていた頃、自らへの罰として封印していた彫刻の代わりに、数多くの優れた書を光太郎が残したことは広く知られていたようで、こうした依頼があったのでしょう。
ちなみに同書、二重カバーとなっており、昨日は外側カバーの画像をあげましたが、こちらは内側のカバーです。
光太郎が序文を書き、詩「軍人精神」を寄せたアンソロジー『詩集 大東亜』。殆どの収録作品が高橋氏曰くの「大きなことば」(人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われる)で書かれています。
それに対し「小さなことば」(個人が個人的なことを書いて伝える)で書かれたアンソロジーも取り上げられています。山本和夫編『野戦詩集』(昭和16年=1941)。『詩集 大東亜』と異なり、実際に応召して日中戦争の戦闘に参加した詩人-それもマイナーな-6人による作品集です。6人は加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫。このうち西村は昭和19年(1944)に戦死しました。また、光太郎と交流のあった長島は、迫撃砲弾を受け、左目を失明しました。
6人の詩はいずれも戦闘の様子をを勇ましく謳ったものではなく、野戦病院での一コマや、炎熱下の行軍の苦しさなどを題材にしています。中には厭戦的ともとれるものも。「翼賛」思想の殆ど見られないこれらの「小さなことば」にこそ、芸術としての真価があると、高橋氏。なるほど、と思わされました。
ところで、『野戦詩集』、その帯には光太郎の推薦文が印刷されていたそうです。当方も現物は確認出来ていませんが。同一の(と思われる)文は昭和16年(1941)2月26日の『読売新聞』に掲載されました。
支那事変に出征してつぶさに実戦の労苦に身を委ねた詩人の数も多いので、その詩人達の声をききたいとは誰しも思ふところであるが、丁度その希望に応へるやうにこの詩集が刊行せられた。集められたのは加藤愛夫、西村皎三、長島三芳、佐川英三、風木雲太郎、山本和夫の六氏の戦場詩である。大方は或は無事に、或は負傷して今は故国に帰還せられたのであるが、西村、風木の両氏はいまだに任務につかれて戦場にゐる。いづれの詩も皆戦闘の合間に野戦手帳や紙きれに書き付けられたものであつて、雨にぬれ汗によごれたものの中から抜書きされたものも多いやうである。さすがに詩人の個性は歴然として明かで同じやうな苦痛と死との中からも六氏それぞれの詩の世界は同様でなく、同じ緊張の中にもその人間観世界観の向き方によつてそれぞれの表現内容と発想形式とに特殊性を持つてゐて、決して一様の類型を示してゐない。かかる極限の場合に詩人の本質がまじりけ無く迸り出てその詩を生かしてゐる事を痛感する。どの詩人も言葉と実感との間に或る焦燥を持つてゐる。有り余る実感が言葉の間で渦を巻いてゐる。言葉は僅かにその万分の一を象徴してゐる。殆ど吃つてゐるやうな言葉遣さへあるがそれが又逆にその奥の実感を伝へてゐる。これを見ても人間の言葉はやはり信頼し得べきものだと思はずにゐられなかつた。こんな苦しい中で詩を書きおほせたこれらの詩人の精神に打たれた。
「大きなことば」で翼賛詩を書かざるを得ない立場にあった光太郎も、「小さなことば」で書かれたこのアンソロジーの本質を鋭く見抜いていることが分かります。
残念ながら『ぼくらの戦争なんだぜ』では、この光太郎の評について言及されていません。高橋氏が入手されたという『野戦詩集』、帯が無くなっていたのでしょう。高橋氏によるこの評の「評」を読みたいものだと思いましたが。
その後、高橋氏の筆は、大岡昇平、林芙美子ら、そして太宰治へと続いていきます。特に太宰の項には力が入っており、さらに今後も書き継がれるおつもりだとのこと。
ところで、『東京新聞』さんに同書の書評的な記事が出ていました。
<土曜訪問>知る努力を絶えず 「戦争」を考える新著を刊行 高橋源一郎さん(作家)
終戦から七十七年の今年、戦争は決して過去のものではないのだとあらためて突き付けられたのが、ロシアによるウクライナ侵攻だった。いま、戦争について何を知り、どう考えればいいのか。作家の高橋源一郎さん(71)は、先月刊行した新著『ぼくらの戦争なんだぜ』(朝日新書)を、こうした問いへの「一つの回答」と位置付ける。
「中途半端な知識ではなく、戦争についてちゃんと語れるようにするために必要な知識は何だろう、と。無垢(むく)な疑問を発するのが一番大切なことじゃないか、という考え方です」と高橋さんは説く。
四百七十ページ超の本書は、書かれた言葉を通して昭和の戦争を考えていく。戦時下の日本の教科書、戦後のドイツやフランス、韓国の歴史教科書。戦中の詩、戦争を扱った小説などを取り上げ、丁寧に読み進めながら、思索を重ねる。
例えば、戦中の対照的な詩集を示して考えるのは、「大きなことば」と「小さなことば」。<人びとを「大きな目標」に駆り立てるために、使われるのが「大きなことば」>だとして例に挙げるのは、太平洋戦争末期の一九四四年に刊行され、高村光太郎ら有名詩人の作品を収めた『詩集 大東亜』(日本文学報国会編)。戦争協力詩が並ぶ。
<彼らと同じことが起こりうる、とぼくは思う。というか、起こっているのかも、とぼくは思う>と高橋さんは書く。社会の中で「大きなことば」が人々をとらえて破壊していく、いわば「見えない戦争」はずっと続いているのではないか−というかねての問題意識からだ。
「大きなことばって、思考停止を誘う、議論が起きない言葉でしょ。言葉ですらない、空気、雰囲気かもしれない。そういうものはずっとこの国にある、ということですよね」
対して、<個人が個人的なことを書いて伝えるのが「小さなことば」>であるとして、中国に出征した兵士六人の詩を集めた『野戦詩集』(山本和夫編、四一年)を見る。取り上げた約二十編は、進軍にうつむく現地の人の姿を見逃さなかったり、戦場のあちこちに倒れた馬にまなざしを向けたり、<戦争は/何でこんなにものを忘れさせるんだらう>とつぶやいたり。作者の実感を伴う言葉が胸に迫る。偶然手に入れたという同詩集の書き手に、有名な詩人はいない。しかし、「奇跡のような優れた詩集」と高橋さんは絶賛する。
同様に着目した一人が、太宰治(一九〇九〜四八年)だ。ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、創作期間がほぼ戦時下と重なる太宰の作品をあらためて読んだ。「戦時下で作家はどう書くべきか、考えて書いていたと思うんですよね」。太平洋戦争開戦の日を主婦の日記という形でつづった短編「十二月八日」などを挙げて、太宰の意図を読み解く。
「あの時代、大きいものに巻き込まれないことは難しい。でも、それぞれのやり方を模索していた人たちがいたことは、勇気づけられました」と高橋さんは言う。では、いかなる時も、言葉に支配されないための手だてとは何か。「自分で自分の疑問を解決していくということと、何かを知る努力を絶えず続けるということですよね」
十四年間、教壇に立った明治学院大を二〇一九年三月に退官。「僕が勉強になりましたよね。人に教えるっていうのは、作家と読者の関係みたいだなあとか思って」と振り返る。二〇年からは、毎週金曜にNHKラジオ第一の番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」を持ち、自身で選んだ一冊やゲストとの対話を通して社会を考える。
近ごろ、気になっているのは社会的な検閲。以前より書きにくさを実感しているという。「絶えず考えてなきゃいけない、ということですよね。思考停止することなく」。言って、ふとにっこり笑って「でも、考えたらさ」と続ける。
「小説って、細かい、ほんのちょっとした人の気持ちのずれみたいなものを描いているんだよね。世界の本当にささやかな違いみたいなものを、絶えず念頭に置くのが作家の仕事だから」
さて、同書、ぜひお買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
平凡社の中島洋典といふ人くる、書道全集推せん文のこと、
昭和29年(1954)2月16日の日記より 光太郎72歳
「推せん文」は、「書を見るたのしさ」の題で、平凡社の「書道全集」の内容見本に掲載されました。同全集には、のちに第7巻「中国 隋、唐Ⅰ」の月報にも「黄山谷について」の一文を寄せています。
戦時中の翼賛詩文を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋で7年間の蟄居生活を送っていた頃、自らへの罰として封印していた彫刻の代わりに、数多くの優れた書を光太郎が残したことは広く知られていたようで、こうした依頼があったのでしょう。