新刊です。

月をみるケンタウルス 紳士の心得帳

2022年8月15日 法橋和彦著 未知谷発行 定価2,000円+税

馬の挙動、騎手の振る舞い、血統や体重の増減、馬場の状態……あらゆるデータを蒐集して予想するレースの展開と出走馬の着順!その光の奥に数字と札束しか見ないようでは紳士の遊びとは言えまい。
 
傍らに馬券、視線の先でゴールを駆け抜ける馬と騎手、そのとき心に浮かぶのは長い人類の営み、個々の人間各々の業、喜び、美、文学に昇華された形而上学……
 
正統派ロシア文学者だからこそのディープなロシア文学への言及、日本、中国、フランス、エト・セトラ、走る馬を見ながら専門を越え、凡そ琴線に触れるあらゆる文学を想起する、前代未聞の競馬エッセイ――77年~79年日刊スポーツ連載
001
目次

 「京都記念」を観戦してトルストイのトバク心得を思う
 高橋成忠最後の騎乗を見て、幻の名馬「ホルストメール」を思う
 サンケイ大阪杯をみて『アンナ・カレーニナ』の競馬を思う
 鳴尾記念をみて『スペードの女王』の賭けを思う
 「桜花賞」を見終えて中央競馬会をしかる
 『さつき賞』を予想して、ドストエーフスキイの『賭博者』を思う
 チエホフの『賭け』、「NHK杯」を見て思う
 ペチョーリンの賭け、オークスに敗れた馬に思う
 宝塚記念をみて、茂吉の『童馬漫語』を思う
 中京競馬をみて「連環万馬の計」を思う
 夏の中京万馬券を論じてマラルメの詩おもう
 小倉戦牝馬の好走見て火野葦平の『花と龍』を思う
 ブロンディン死の綱渡りに、馬と騎手の連帯を思う
 戦争で死んだ馬五十万頭、盛夏の「小倉」に思う
 小倉記念に無法松の「勇み駒」をきく
 阪神障害ステークスに、初秋の歌を聞く
 鱒二の「仲秋名月」を、長月特別に思う
 万馬券を逸して「ムツゴロウの大勝負」を思う
 4レース連続のコース・レコードに、ヴェルレエヌの「秋の歌」を思う
 松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」
 菊花賞を見て漂泊の俳諧師一茶を思う
 エリザベス女王杯に思う、ヴァレリイの「海の墓標」
 セントウルステークスに三好達治の歌をきく
 「有馬記念」をみて釋迢空の歌をおもう
 一休宗純の魔界
 テンポイントの悲運を恨む
 ミカローズの好走にエセーニンの詩を思う
 淀の「忘れ水」
 ジェリコーの馬ととべ
 桜花賞トライアルの酒
 物狂わす〝桜の花の下〟
 「さつき賞」を見る
 郷原騎手の無念にパドックのドガを思う
 叱られ叱りとばして……
 ダービーに萩原葉子の『蕁草の家』を思う
 語らざれば愁なきに似たり
 宝塚記念の雪辱をはたす
 悶といふ字
 魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)
 三十にして立たず、四十にして惑う(紳士の心得帳2)
 漱石と馬券のはなし(紳士の心得帳3)
 勝負のひけどき(紳士の心得帳4)
 白地図の効用(紳士の心得帳5)
 鴎外の賭博論(紳士心得帳6)
 女性の同伴つつしむべし(紳士心得帳7)
 「三十六計逃げ馬」考(紳士心得帳8)
 グシケンに〝希望〟
 博奕の精神(紳士心得帳9)
 「花が石にも咲きはせじ」(紳士心得帳10)
 つるぎは折れぬ馬もたふれぬ(紳士心得帳11)
 イカロスと魔法の馬(紳士心得帳12)
 羊どしに泣く
 入試問題と馬の予想003
 花の下にて春死なん
 春なれや二月となれば
 上悍こそ大将の乗るべき馬
 「散ればこそ……」
 ぬれて匂ひし花や散るらん
 馬を見に行く
 天皇賞と「落馬結い」
 「五月は黒鹿毛をねらえ」
 黒鹿毛おおいに笑う
 「牝馬おおいに走る」
 木槿は馬にくはれけり
 我を絵にみる夏野かな
 万のことは頼むべからず
 「馬よ花野に眠るべし」
 「コガネムシは金モチだ」
 「数字と連想」
 続「数字と連想」
 解説 岩浅武久

サブタイトルが「紳士の心得帳」。しかしマナーとかファッションとかではなく、紳士の趣味とされてきた「競馬」に関するエッセイ集です。

著者の法橋(ほっきょう)和彦氏は、ロシア文学者にして大阪外語大名誉教授。氏が昭和52年(1977)から翌年にかけ、『日刊スポーツ』さんに連載なさっていた同名のコラムを一冊にまとめたものです。この書籍以前に、氏の退官記念にと、教え子の皆さんが氏の執筆目録を作成された際、本書の解説も書かれているやはりロシア文学者の岩浅武久氏が、『日刊スポーツ』紙の連載を見つけ、「これは面白い、何とか一冊にまとめられないか」と、奔走して出版されたものだそうです。

そういうわけで、およそ45年前の競馬界。競馬には詳しくない当方でも記憶している名馬の名が頻出します。テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラス、カツラノハイセイコなどなど(ハイセイコーは既に引退していました)。

競馬を語ったエッセイ集ですが、法橋氏のご専門のロシア文学――トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキーなど、さらには仏文でボードレールやヴェルレーヌ、そして日本文学にもからめて展開されています。目次からわかりますが、漱石、鷗外、太宰、芭蕉や一茶など。

そしてわれらが光太郎。「松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」」という章で、詩「秋の祈」(大正3年=1914)が引かれています。

   秋の祈

 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り002
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る

第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻末を彩る詩で、おそらく『道程』のために書き下ろされたと推定されています。この後、光太郎は詩作を一旦中断します。確認出来ている限り、次に発表した詩は2年後の「我家」です。まぁ、いわば詩人としての一区切りをつけた、記念すべき作です。

「秋の祈」が書かれ、『道程』が出版された大正3年(1914)は、智恵子との結婚披露も行われました。父・光雲を頂点にいだく日本彫刻界と訣別し、展覧会等には作品を出さず(出せば「光雲の息子だから」という理由で、本質を理解されないまま入選してしまうことを危惧したと思われます)、智恵子と手を取り合って、この国に新しい芸術を根付かせていこうという悲壮な決意を固めていた時期でした。詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」も、そうした表れです。

さて、この詩が引用され、語られたのは松若勲騎手。昭和52年(1977)11月5日、京都競馬場の第9レースで起こった大規模な落馬事故で亡くなりました。この事故を機に、安全対策の見直しが図られたそうです。法橋氏もこの項でそれを訴えていました。

そして法橋氏、生前の松若騎手、「秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り/空は水色、鳥が飛び/魂いななき/清浄の水こころに流れ/こころ眼をあけ/童子となる」ような騎乗ぶりであったとし、この詩のような心境でレースに臨み続けた生涯だったのだろう、と結んでいます。多少の無理くり感がありますが、若松騎手の人柄にも接していた法橋氏にとっては、そういう感じだったのでしょう。

他に、「魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)」という章でも光太郎詩。こちらでは明治44年(1911)に書かれた「根付の国」が使われています。

   根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

章題中の「魔の三年目」は、「競馬を始めて三年目」の意。ビギナーズラックも終わって、思わぬ散在にこりて手を引く人も多い中、逆に一発逆転のギャンブルとしての側面に取り憑かれ、泥沼にはまり出すのもこの時期だそうです。そうなった人々の顔つきは「根付の人」のようだ、というわけで。さもありなん、ですね。

こんな感じで、各章、競馬を語りながらの人生論、文化論、歴史論、そして紳士論となっています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

吉澤といふ狂信者のやうな人くる 折紙をやる由、門口でかへす、


昭和28年(1953)11月17日の日記より 光太郎71歳

折紙」で「吉澤」となると、平成17年(2005)に亡くなった折紙作家・吉澤章氏かな、と思ったのですが、不分明です。

もしそうだとすると、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられた「蝉」など、光太郎の木彫「蝉」の影響があったのかもしれません。