8月10日(水)、茨城県北茨城市に行っておりました。目的地は同市にある茨城県立天心記念五浦美術館さん。こちらに『高村光太郎全集』等に漏れていた光太郎書簡の所蔵があるということを知り、閲覧に伺った次第です。
当初、前日が宮城県女川町での女川光太郎祭の予定でしたので、そちらへ参加後の帰途に立ち寄ろうと考え、この日に閲覧する申請を出したのですが、女川光太郎祭が今年もコロナ禍のため中止となり(須田善明町長も感染されたそうで)、北茨城市単独の訪問となりました。
申請した時刻に遅れてはいけないので、早めに自宅兼事務所を出発。途中の高速道路で事故渋滞にでも嵌ったらアウトです。幸い、何事もなく北茨城に。そこで、天心記念五浦美術館さんに行く前に、手前の野口雨情記念館さんに立ち寄りました。
正確には「北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館」。雨情以外の郷土資料等の展示も充実していました。
当初、前日が宮城県女川町での女川光太郎祭の予定でしたので、そちらへ参加後の帰途に立ち寄ろうと考え、この日に閲覧する申請を出したのですが、女川光太郎祭が今年もコロナ禍のため中止となり(須田善明町長も感染されたそうで)、北茨城市単独の訪問となりました。
申請した時刻に遅れてはいけないので、早めに自宅兼事務所を出発。途中の高速道路で事故渋滞にでも嵌ったらアウトです。幸い、何事もなく北茨城に。そこで、天心記念五浦美術館さんに行く前に、手前の野口雨情記念館さんに立ち寄りました。
正確には「北茨城市歴史民俗資料館 野口雨情記念館」。雨情以外の郷土資料等の展示も充実していました。
童謡詩人として名を馳せた雨情ですが、明治15年(1882)の生まれで、光太郎より1歳年長。光太郎は早生まれですので学年は同じです。石川啄木、北原白秋など、共通の友人がいました。しかし、『高村光太郎全集』に雨情の名はありませんで、直接の交流は無かったようです。
まずは雨情の銅像(現代のもの)と、代表作の一つ「シャボン玉」(大正11年=1922)関係のオブジェがお出迎え。
近づくとセンサーが反応し、「シャボン玉」の歌が流れます。さらに本当にシャボン玉が噴出される仕組み。
館内、雨情のコーナー。
興味深く拝見しました。
一昨年の連続テレビ小説「エール」に広岡由里子さん演じる「ベルトーマス羽生」の名で登場した歌手・ベルトラメリ能子も北茨城出身で、雨情と縁があったと知り、驚きました。北茨城、恐るべし(笑)。
雨情以外の郷土資料的コーナー。太平洋戦争がらみの展示が充実していました。
日本軍の機密兵器「風船爆弾」。ここ北茨城からも飛ばされたそうで。そのバルーン部分に使われたのが、智恵子の故郷・福島二本松の上川崎和紙だったらしく、そのため上川崎地区も空襲に遭ったそうです。
人間魚雷「震洋」。こちらも北茨城に配備されていたとのこと。光太郎と交流があり、詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏は、同様の特攻兵器「海龍」の基地に配属され、出撃直前に終戦となり命拾いしたそうです。
この後、北上して天心記念五浦美術館さん方面へ。続きは明日、レポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
宇樽部、より県の車で浅蟲東奥館まで、途中酸ヶ湯にて中食、 くもりなれど雨はふらず、 疲れをやすめるため部屋にひきこもり皆にあはず、
前日に行われた、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式等で、かなり疲弊したようです。もともと肺病を患っている老体に鞭打っていたわけですし……。
まずは雨情の銅像(現代のもの)と、代表作の一つ「シャボン玉」(大正11年=1922)関係のオブジェがお出迎え。
近づくとセンサーが反応し、「シャボン玉」の歌が流れます。さらに本当にシャボン玉が噴出される仕組み。
館内、雨情のコーナー。
興味深く拝見しました。
一昨年の連続テレビ小説「エール」に広岡由里子さん演じる「ベルトーマス羽生」の名で登場した歌手・ベルトラメリ能子も北茨城出身で、雨情と縁があったと知り、驚きました。北茨城、恐るべし(笑)。
雨情以外の郷土資料的コーナー。太平洋戦争がらみの展示が充実していました。
日本軍の機密兵器「風船爆弾」。ここ北茨城からも飛ばされたそうで。そのバルーン部分に使われたのが、智恵子の故郷・福島二本松の上川崎和紙だったらしく、そのため上川崎地区も空襲に遭ったそうです。
人間魚雷「震洋」。こちらも北茨城に配備されていたとのこと。光太郎と交流があり、詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏は、同様の特攻兵器「海龍」の基地に配属され、出撃直前に終戦となり命拾いしたそうです。
右上は東日本大震災関係。東北の被害はかなり報じられましたが、茨城、千葉でも津波が発生、多くの犠牲が出ています。
さらにすぐ近くに雨情の生家があるというので、そちらへも足を運びました。
こちらにもいろいろな展示が。最も驚いたのは、啄木から雨情宛の葉書。おそらく現物と思われましたが、結構無造作に展示されていました。
それにしても不思議なのは、雨情と戦争の関係。雨情は昭和20年(1945)まで存命でしたが、日本文学報国会の名簿に名が無いようです。同学年の光太郎は同会の詩部会長を務め、大量に翼賛詩を書き殴っていました。雨情は昭和18年(1943)に脳出血を起こし、療養生活を送っていたというのですが、それ以前にも翼賛詩的なものは作らなかったのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。さらにすぐ近くに雨情の生家があるというので、そちらへも足を運びました。
こちらにもいろいろな展示が。最も驚いたのは、啄木から雨情宛の葉書。おそらく現物と思われましたが、結構無造作に展示されていました。
この後、北上して天心記念五浦美術館さん方面へ。続きは明日、レポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
宇樽部、より県の車で浅蟲東奥館まで、途中酸ヶ湯にて中食、 くもりなれど雨はふらず、 疲れをやすめるため部屋にひきこもり皆にあはず、
昭和28年(1953)10月22日の日記より 光太郎71歳
前日に行われた、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式等で、かなり疲弊したようです。もともと肺病を患っている老体に鞭打っていたわけですし……。