先月末の『中国新聞』さんから。
題名の「いかさ」って何だ? と思い、調べたところ、「井笠」。岡山県井原市、笠岡市を中心とした地域の略称でした。青森県の「三八上北(さんぱちかみきた……三戸郡・八戸市・上北郡)」などと同じ伝ですね。当方、東北によく行くので、現地で見るテレビのローカル天気予報などで使われる「三八上北」は、その語呂の良さから耳に残っています(笑)。
その井原市にあり、現在新館建設のため休館している田中(でんちゅう)美術館さん、というよりそちらで作品がまとめて収蔵されている平櫛田中の紹介です。
記事冒頭の、明治40年(1907)に岡倉天心、光太郎の父・光雲により6人の彫刻家が集められた、というのは日本彫刻会の結成を指します。田中以外の5人は、米原雲海、山崎朝雲、加藤景雲、森鳳聲、滝澤天友。とりあえず全員、光雲の高弟といって良いかと思われます。
田中の「活人箭(かつじんせん)」画像は制作直後のもの。田中がこれを天心に見せたところ、天心は「なぜ余計な弓矢を作った?」と一喝したそうです。実際に弓矢を手にしていなくとも、見た人にその存在を感じさせるような彫刻でなければ駄目なんだ、というわけです。「余白の美」と申しましょうか、「象徴的技法」と申しましょうか、確かにその通りですね。
そして田中は上記のように改作します。田中が傾倒した禅の精神にも通じるところがあるのでしょう。
同じことは天心の「売れないものを作れ」という一語にも表されているような気がします。世の中に迎合するな、という意味と、判ってもらおうとして説明しすぎるな、といった意味もあるように感じます。光太郎なども、こうした精神を持って彫刻制作に当たっていたのではないでしょうか。光太郎も、一時、親しかった田中の影響もあって禅に親しんでいました。そうした制作態度を「気取っている」と評する向きもありますが……。
ちなみに最初の田中の写真、元になったのはこちら。
東京美術学校での光雲門下生の集合写真です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』口絵に使われているもので、光太郎も写っていまして、明治35年(1902)頃の撮影と推定されます。これが田中の若い頃唯一の写真だそうです。上記記事を書かれた学芸員の青木氏から、「写真のオリジナルプリントがどこに所蔵されているか知らないか」と問い合わせがあったのですが、当方も存じませんで、役に立てませんでした。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。
さて、井原市立田中美術館さん、建設中の新館は10月に竣工予定、来年4月にリニューアルオープンだそうです。まだ先の話になりますが、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
午后一時メダル150個全部出来、内山氏持参、青森県事務所に届けてもらふ、
「メダル」は、生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。正式なものは内山嘉一郎により150個鋳造されたということで、時折、ネットオークションに出ます。2度ほど、10万円ちょっとまで粘って入札したのですが、負けました(笑)。
「売れない」ものを作る【いかさミュージアム散歩】井原市立田中美術館
6人は天心の待つ上野の寺に集う。ある者が宮内省御買い上げ品以外に彫刻の需要がないことへの苦しさを訴えると、天心は即座に「諸君は売れるようなものをお作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と一言だけ言った。
売りたいという心で人にこびたものを作ることは、自分の心を裏切っている。言下に田中は、売れないものを作るのは造作もない、自分の好きなものを作ればいいのだ、と感得した。この言葉をもって、名作「活人箭(かつじんせん)」が生まれた。坊さんを作れば、誰も買わないだろうと。
田中は、上京翌年の26歳から参禅し、禅を精神の支柱にしていた。自分の好む禅など作品にしたところで需要はありはしないと思っていた。「一生の早い時期に偉い人に会うという事は、人間の第一の幸福です」。この幸福な時期は13年、天心が50歳で世を去ることで終わる。「省みて、先生に背くことの多いのを恥じます。誠に恐ろしいお言葉であると、しみじみ感じます」
07年の年齢を列記しよう。光雲55歳、天心45歳、大観39歳、田中35歳、春草33歳。美術界は風雲児天心の下、硬骨漢たちがこれまでの常識を打ち破って「売れない」ものを作り、芸術上の大革新が行われる。そして、当時、理解し難かった作品は今、傑作として人々の称賛を得ている。(田中美術館学芸員・青木寛明)
<メモ>新館建設のため休館中。来年4月にリニューアルオープンする。住所は井原市井原町315。グッズは、井原市民会館内の仮事務所で販売中。通信販売もある。☎0866(62)8787 http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/
題名の「いかさ」って何だ? と思い、調べたところ、「井笠」。岡山県井原市、笠岡市を中心とした地域の略称でした。青森県の「三八上北(さんぱちかみきた……三戸郡・八戸市・上北郡)」などと同じ伝ですね。当方、東北によく行くので、現地で見るテレビのローカル天気予報などで使われる「三八上北」は、その語呂の良さから耳に残っています(笑)。
その井原市にあり、現在新館建設のため休館している田中(でんちゅう)美術館さん、というよりそちらで作品がまとめて収蔵されている平櫛田中の紹介です。
記事冒頭の、明治40年(1907)に岡倉天心、光太郎の父・光雲により6人の彫刻家が集められた、というのは日本彫刻会の結成を指します。田中以外の5人は、米原雲海、山崎朝雲、加藤景雲、森鳳聲、滝澤天友。とりあえず全員、光雲の高弟といって良いかと思われます。
田中の「活人箭(かつじんせん)」画像は制作直後のもの。田中がこれを天心に見せたところ、天心は「なぜ余計な弓矢を作った?」と一喝したそうです。実際に弓矢を手にしていなくとも、見た人にその存在を感じさせるような彫刻でなければ駄目なんだ、というわけです。「余白の美」と申しましょうか、「象徴的技法」と申しましょうか、確かにその通りですね。
そして田中は上記のように改作します。田中が傾倒した禅の精神にも通じるところがあるのでしょう。
同じことは天心の「売れないものを作れ」という一語にも表されているような気がします。世の中に迎合するな、という意味と、判ってもらおうとして説明しすぎるな、といった意味もあるように感じます。光太郎なども、こうした精神を持って彫刻制作に当たっていたのではないでしょうか。光太郎も、一時、親しかった田中の影響もあって禅に親しんでいました。そうした制作態度を「気取っている」と評する向きもありますが……。
ちなみに最初の田中の写真、元になったのはこちら。
東京美術学校での光雲門下生の集合写真です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』口絵に使われているもので、光太郎も写っていまして、明治35年(1902)頃の撮影と推定されます。これが田中の若い頃唯一の写真だそうです。上記記事を書かれた学芸員の青木氏から、「写真のオリジナルプリントがどこに所蔵されているか知らないか」と問い合わせがあったのですが、当方も存じませんで、役に立てませんでした。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。
さて、井原市立田中美術館さん、建設中の新館は10月に竣工予定、来年4月にリニューアルオープンだそうです。まだ先の話になりますが、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
午后一時メダル150個全部出来、内山氏持参、青森県事務所に届けてもらふ、
昭和28年(1953)10月10日の日記より 光太郎71歳
「メダル」は、生涯最後の完成作となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。正式なものは内山嘉一郎により150個鋳造されたということで、時折、ネットオークションに出ます。2度ほど、10万円ちょっとまで粘って入札したのですが、負けました(笑)。