一昨日の『中日新聞』さん一面コラム。

中日春秋 2022年7月28日

 首相在任中に病に倒れ、退陣後に没した自民党の小渕恵三氏に対する国会での追悼演説は二〇〇〇年五月、野党・社民党の村山富市元首相が行った▼小渕氏が首相時代に開催地を沖縄に決めたサミットが迫っていた。氏が学生時代から通い、米国統治下の苦難を学んだ土地▼日本は東京以外でのサミット開催経験がなかったが、慎重論に与(くみ)せずあえて沖縄を選んだことを村山氏は称(たた)えた。「熱い思いが沖縄の人々をどれほど勇気づけているかは、立場こそ違え、長年沖縄問題に取り組んできた私には痛いほどわかります」「沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」▼安倍晋三元首相への追悼演説を同じ自民の甘利明氏が行う案に野党から異論が出ている。人選は遺族の意向らしい。自民党首相経験者への追悼演説は野党が行うのが慣例で、党派を超えて哀悼の意を表してきた。大平正芳氏の場合も、社会党委員長が演説した▼今回は、反発も承知で安倍氏の国葬を決めながら、追悼演説は身内…。再考した方がよさそうに思える▼村山氏は、小渕氏が愛唱した高村光太郎の詩『牛』を引用し、人柄をしのんだ。「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる」。我を通すべきことの選択を誤ると、民の心も離れる。

当初、8月3日召集の臨時国会で検討されていた追悼演説は、なぜか延期の方向だそうですが、その理由の一つが、指名されたA氏が「静かな環境でやるべき」とのたまったとのことで、まさに「おまいう」(笑)。大臣室で現金を受け取った人物の発言とは思えませんね。

平成12年(2000)5月に衆議院本会議で行われた、村山富市氏による小渕恵三氏への追悼演説。光太郎に関わる部分の前後のみ抜粋します。

000 昭和三十八年の初当選以来、福田、中曽根元総理らと議席を争った厳しい選挙区環境がつくり出した庶民的な「人柄の小渕」は、総理になってからも何ら変わることはありませんでした。
 昨年、ブッチホンという流行語大賞に選ばれたほど、常に市井の声に耳を傾け、国民と同じ目線で物事を見る屈託のない姿勢は、国民の共感するところでございました。
 君がよく愛唱した高村光太郎の
  牛は随分強情だ
  けれどもむやみとは争はない
  争はなければならない時しか争はない
  ふだんはすべてをただ聞いてゐる
  そして自分の仕事をしてゐる
  生命をくだいて力を出す
君の人生はまさにこの詩のごとくでありました。
 君の人柄について語るとき、いつも謙虚であろうとした君の姿勢について触れないわけにはいきません。
 みずからが凡人であることを片時も忘れないよう心がけておられました。それは、口に出せば簡単ですが、凡人にはなかなかできないことであります。いかなる地位にあっても偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そして凡人だから懸命に努力する、そうした姿勢が凡庸に見えて非凡という境地を開かれたのであります。(拍手)
 その牛にも似た、地道で人知れぬ努力があったからこそ、一国の指導者にまで上り詰めたのでありましょう。
 もはやこの議場に君の温容を目にすることはできません。耳を澄ませば、今も、力強い中にも優しさのこもった声が聞こえてくるではありませんか。
 小渕君、君に課せられた宰相という厳しい重責は、君に一刻の休息も許しませんでした。本当に御苦労さまでした。

もう22年も経つか、という感じですが、この頃はこの頃でいろいろあったものの、まだ健全な世界でしたね。

「牛」全文はこちら(閲覧注意! 超長い詩です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

午前十時頃大町桂月の長男芳文氏と文京区文化係長中出忠勝といふ人来る、メダルなど見せる、亡父によく似てゐるとの事、


昭和28年(1953)9月27日の日記より 光太郎71歳

完成作としては光太郎最後の彫刻となった小品「大町桂月メダル」。翌月行われた「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」除幕式に際し、関係者に記念品として配付されたものです。元々「乙女の像」は、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月ら「十和田の三恩人」顕彰のためのものでした。
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原型が完成し、桂月の子息に見てもらったとのこと。なぜ文京区の役人が同席していたのかは不明ですが。ちなみに子息・芳文は農学者。光太郎実弟にして藤岡家に養子に行った同じく農学者の孟彦とは昵懇の間柄でした。

ところで9月に行われる予定の「国葬」とやら(ここへきていろいろあるD社とのズブズブぶりが報じられていますが)で、当該人物の肖像を刻んだメダルなど配付されたりはしないでしょうね(笑)。