昨日の新聞二紙から。
まず、「土用丑の日」だったということで、『朝日新聞』さんの土曜版から、鰻の蒲焼きについての記事。かなり長いので全文は引用しませんで、後半のみを。前半では、土用丑の日に夏ばてを防ぐため、栄養価の高いうなぎを食べる慣習について、平賀源内がうなぎ屋のために考案し、広まったという『定説』について。「裏付けとなる文献が、今のところ見つかっていない」ということで、肯定する根拠も、さりとて否定する根拠もないそうです。さらに、隅田川下流域の「江戸前うなぎ」がブランド化していった歴史、調理方法の変遷など。
そして、後半。「江戸前うなぎ」の名店の一つで、光太郎も通った「駒形前川」さんに取材。こちらは令和元年(2019)の『週刊ポスト』さんでも、光太郎にからめて紹介されていました。光太郎の父・光雲が生まれた嘉永5年(1852)に出た「江戸前大蒲焼」番付にも載った店です。また、光雲といえば、光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に、前川さんが登場します。
しょうゆとみりんを煮詰めた「生(き)だれ」。生だれをつぎ足し、つぼに入っているのが「母(ぼ)だれ」。これが代々続く秘伝のタレだ。「生だれと母だれ、なめると味が全く違う。母だれには、積み重なってきたうなぎのうまみがつまっている」という。
うなぎをつぼにつけるのは、さばいて、串をうち、素焼きにして、蒸しに入れ、余分な脂を落とした後の工程だ。うなぎの身が、新しい良質な脂とうまみをつぼに落とし、同時に、母だれの熟成したうまみをたっぷり吸い込んで、再び焼かれる。
老舗の蒲焼きが、甘くないのに、うまい理由は、ここにあった。
先代たちの歴史は「選択」の連続だった。関東大震災、東京大空襲では、つぼを大八車に載せて逃げた。店が焼失しても、ゼロから再出発した。2011年3月、東日本大震災の大きな揺れが店を襲ったその時も、一仁さんの父で6代目の一馬さんは、客や従業員の安否を確かめながら、つぼのことを鬼気迫る表情で案じていた。一馬さんは病気で他界し、7代目となった一仁さんが、長引くコロナ禍と向き合ってきた。
店の伝統を裏付けるような資料を残す余裕は、先代たちになかったようだ。だからこそ、番付「江戸前大蒲焼」の存在は「色んな人にうちを知ってもらえて、ありがたい」。
江戸前うなぎに「蒸す」という調理工程が加わった背景には、江戸時代後期のコレラの流行がある、と一仁さんは考えている。「より衛生的で安全な提供方法を考えた結果、先人は蒸すことを選択した。天然か、養殖かも、選択の一つ。守るべきこと。変えるべきこと。いつの時代も、両方を考えないといけない」
江戸時代に花開いたうなぎ文化もいま、岐路に立たされている。稚魚や親ウナギの保全、人工孵化(ふか)や完全養殖。絶滅危惧種となってしまったニホンウナギと共存するための、新たな選択肢が模索されている。
かつては筒を沈めるだけで、ウナギがとれたという隅田川。今でも釣りスポットとして人気だが、ネット上で「隅田川の魚は食べても美味だ」と薦める人は見かけない。
目の前の水辺にいたヘンな魚を、焼いて食べたら、うまかった。しょうゆ、山椒、みりん、ご飯をつけたらもっとうまかった。そんなシンプルな話だったのだ。ある時までは。
「駒形前川」は、池波正太郎、高村光太郎、山田耕筰といった文化人がひいきにしていた。現在は千葉県銚子市の問屋から天然に近い環境で育てた養殖うなぎ「板東太郎」などを仕入れている。雷門通りにある「やっこ」も、ジョン万次郎や勝海舟が訪れた名店だ。
当方自宅兼事務所のある千葉県香取市。利根川の水運の要所として、江戸時代から続く古い街並みも残る観光地です。やはり利根川の関係で鰻も昔からの名物で、旧市街には江戸時代創業のうなぎ屋さんが数店。さらに住宅街である自宅兼事務所近くにはその支店も。
以前は、遠隔地の友人、仕事の打ち合わせに訪れた方などが訪ねてきた際には、そうした店にご案内することも少なくなかったのですが、最近はとんと足が遠のいています。とにかく美味ではありますが、やはり価格の問題がありまして……。以前は二千円ほどで食べられましたが、最近は四千円台と記憶しております。記事にもあった資源としての減少の問題が大きいのでしょう。
ちなみに今年の土用丑の日は、2回。昨日と、8月4日(木)も該当します。光太郎父子に愛された「駒形前川」さん、ぜひ足をお運び下さい。
もう1件、やはり昨日の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」という連載です。
ちなみに「ふくしま国体」のテーマソング、佐藤信氏作詞、林光氏作曲の「ほんとうの空へ」は、現在でも時折コンサート等で演奏されています。
「林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)」。
合唱団じゃがいも第48回定期演奏会 林光さん没後10年を偲んで。
こちらも末永く愛されて欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
山口小学校長浅沼氏今朝来訪の由、又午后くるとの事、 午后東方亭主人くる、トマトをもらふ、 山口小学校長くる、自園の桃をもらふ、
「山口小学校」は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。そこの先生方や子供たちとは深い交流がありました。校長・浅沼政規は光太郎に関する貴重な回想を数多く残しました。子息の浅沼隆氏は、現在も光太郎の語り部として花巻で活動されています。
「東方亭」は、戦前からの光太郎行きつけのトンカツ屋。荒川区の三河島に店がありました。
まず、「土用丑の日」だったということで、『朝日新聞』さんの土曜版から、鰻の蒲焼きについての記事。かなり長いので全文は引用しませんで、後半のみを。前半では、土用丑の日に夏ばてを防ぐため、栄養価の高いうなぎを食べる慣習について、平賀源内がうなぎ屋のために考案し、広まったという『定説』について。「裏付けとなる文献が、今のところ見つかっていない」ということで、肯定する根拠も、さりとて否定する根拠もないそうです。さらに、隅田川下流域の「江戸前うなぎ」がブランド化していった歴史、調理方法の変遷など。
そして、後半。「江戸前うなぎ」の名店の一つで、光太郎も通った「駒形前川」さんに取材。こちらは令和元年(2019)の『週刊ポスト』さんでも、光太郎にからめて紹介されていました。光太郎の父・光雲が生まれた嘉永5年(1852)に出た「江戸前大蒲焼」番付にも載った店です。また、光雲といえば、光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に、前川さんが登場します。
(はじまりを歩く)江戸前うなぎ 東京都 白米とみりん、客層を広げる
昼下がりの「駒形前川」。7代目主人の大橋一仁さん(43)が、かっぽう着姿で取材に応じてくれた。もとは川魚問屋だったが、220年ほど前、初代がうなぎ料理を始めた。「目の前が大川だから、前川。浅草へ遊びに行く人が舟で乗り付け、腹ごしらえする店だったみたいです」しょうゆとみりんを煮詰めた「生(き)だれ」。生だれをつぎ足し、つぼに入っているのが「母(ぼ)だれ」。これが代々続く秘伝のタレだ。「生だれと母だれ、なめると味が全く違う。母だれには、積み重なってきたうなぎのうまみがつまっている」という。
うなぎをつぼにつけるのは、さばいて、串をうち、素焼きにして、蒸しに入れ、余分な脂を落とした後の工程だ。うなぎの身が、新しい良質な脂とうまみをつぼに落とし、同時に、母だれの熟成したうまみをたっぷり吸い込んで、再び焼かれる。
老舗の蒲焼きが、甘くないのに、うまい理由は、ここにあった。
先代たちの歴史は「選択」の連続だった。関東大震災、東京大空襲では、つぼを大八車に載せて逃げた。店が焼失しても、ゼロから再出発した。2011年3月、東日本大震災の大きな揺れが店を襲ったその時も、一仁さんの父で6代目の一馬さんは、客や従業員の安否を確かめながら、つぼのことを鬼気迫る表情で案じていた。一馬さんは病気で他界し、7代目となった一仁さんが、長引くコロナ禍と向き合ってきた。
店の伝統を裏付けるような資料を残す余裕は、先代たちになかったようだ。だからこそ、番付「江戸前大蒲焼」の存在は「色んな人にうちを知ってもらえて、ありがたい」。
江戸前うなぎに「蒸す」という調理工程が加わった背景には、江戸時代後期のコレラの流行がある、と一仁さんは考えている。「より衛生的で安全な提供方法を考えた結果、先人は蒸すことを選択した。天然か、養殖かも、選択の一つ。守るべきこと。変えるべきこと。いつの時代も、両方を考えないといけない」
江戸時代に花開いたうなぎ文化もいま、岐路に立たされている。稚魚や親ウナギの保全、人工孵化(ふか)や完全養殖。絶滅危惧種となってしまったニホンウナギと共存するための、新たな選択肢が模索されている。
かつては筒を沈めるだけで、ウナギがとれたという隅田川。今でも釣りスポットとして人気だが、ネット上で「隅田川の魚は食べても美味だ」と薦める人は見かけない。
目の前の水辺にいたヘンな魚を、焼いて食べたら、うまかった。しょうゆ、山椒、みりん、ご飯をつけたらもっとうまかった。そんなシンプルな話だったのだ。ある時までは。
「駒形前川」は、池波正太郎、高村光太郎、山田耕筰といった文化人がひいきにしていた。現在は千葉県銚子市の問屋から天然に近い環境で育てた養殖うなぎ「板東太郎」などを仕入れている。雷門通りにある「やっこ」も、ジョン万次郎や勝海舟が訪れた名店だ。
当方自宅兼事務所のある千葉県香取市。利根川の水運の要所として、江戸時代から続く古い街並みも残る観光地です。やはり利根川の関係で鰻も昔からの名物で、旧市街には江戸時代創業のうなぎ屋さんが数店。さらに住宅街である自宅兼事務所近くにはその支店も。
以前は、遠隔地の友人、仕事の打ち合わせに訪れた方などが訪ねてきた際には、そうした店にご案内することも少なくなかったのですが、最近はとんと足が遠のいています。とにかく美味ではありますが、やはり価格の問題がありまして……。以前は二千円ほどで食べられましたが、最近は四千円台と記憶しております。記事にもあった資源としての減少の問題が大きいのでしょう。
ちなみに今年の土用丑の日は、2回。昨日と、8月4日(木)も該当します。光太郎父子に愛された「駒形前川」さん、ぜひ足をお運び下さい。
もう1件、やはり昨日の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」という連載です。
「福島県 今日は何の日」 1990(平成2)年7月23日 国体スローガン 友よ、ほんとうの空にとべ!
1995年に開催した第50回国民体育大会のテーマ(愛称)が「ふくしま国体」、スローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」に決定した。
テーマは美しい自然など本県の持つ特性を県名に込め、平仮名で柔らかく表現した。スローガンの「ほんとうの空」は「智恵子抄」などによって県内外に知られており、本県の全体的な印象として定着していると判断した。
4月中旬からスローガンとテーマを公募し、テーマに1万7664点、スローガンに1万4250点が寄せられた。
平成7年(1995)の「ふくしま国体」。このテーマに「ほんとうの空」の語が使われたことで、以後、福島の形容詞として、「智恵子抄」由来の「ほんとの空」、その変形種「ほんとうの空」の語が広く使われるようになっていきました。ただ、平成23年(2011)の東日本大震災による福島第一原子力発電所のメルトダウン以後、また違った意味が付加されるようになってしまったのは残念ですが……。ちなみに「ふくしま国体」のテーマソング、佐藤信氏作詞、林光氏作曲の「ほんとうの空へ」は、現在でも時折コンサート等で演奏されています。
「林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)」。
合唱団じゃがいも第48回定期演奏会 林光さん没後10年を偲んで。
こちらも末永く愛されて欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
山口小学校長浅沼氏今朝来訪の由、又午后くるとの事、 午后東方亭主人くる、トマトをもらふ、 山口小学校長くる、自園の桃をもらふ、
昭和28年(1953)8月24日の日記より 光太郎71歳
「山口小学校」は、かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。そこの先生方や子供たちとは深い交流がありました。校長・浅沼政規は光太郎に関する貴重な回想を数多く残しました。子息の浅沼隆氏は、現在も光太郎の語り部として花巻で活動されています。
「東方亭」は、戦前からの光太郎行きつけのトンカツ屋。荒川区の三河島に店がありました。