7月15日(金)、花巻高村光太郎記念館さん、そして高村山荘を後に、再び花巻市街へ。今回は、宿泊する大沢温泉さんにチェックインする前に、少し調べ物を、という計画を立てておりました(直前になってそう決めたのですが)。
そこで、花巻市立図書館さんへ。
まず「郷土資料室」という部屋があり、光太郎関連で目新しい発見がないか、チェック。残念ながら、コピーを取る必要のあるものは発見出来ませんでした。
続いて「新聞資料室」。戦中・戦後の光太郎が花巻町及び郊外旧太田村にいた時期の新聞で、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎の談話や講演筆記などが載っていないか、というわけです。ところが、光太郎がいた時期の新聞はあまりありませんでした。最も調べたいと思っていた『花巻新報』(題字揮毫、光太郎)は、光太郎帰京後の昭和30年代からのものしか所蔵されていません。それでも光太郎関係の記事は散見されるのですが、それらは既知。
しかし『岩手日報』は、昭和28年(1953)からのものが所蔵されており、そちらを拝見。光太郎、昭和27年(1952)には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京していますが、昭和28年(1953)11月から12月にかけ、一時的に郊外旧太田村に帰っていますので、その頃の記事を調べました。
すると……
まず光太郎が太田村に帰ってくると聞きつけた記者が、東京中野の貸しアトリエを訪問しての記事。光太郎を「六十九歳」としているのは誤りで、この時、満で70歳、数えで71歳です。光太郎の談話が笑えますね(笑)。1年ちょっとぶりに太田村に帰るということで、ウキウキしていたのかもしれません。
そして、花巻駅に下り立ったという記事。
続いて太田村の山小屋に帰って。この時の記事が一番面積を取っていました。
さらに、再上京についても。
光太郎の言葉と、地の文と、もっと明確に分けて書けよ、と突っ込みを入れたくなりましたが、貴重な記録ではあります。
意外だったのは、「十和田湖畔の裸婦群像」を「みちのく」と表記していること。「乙女の像」という通称も既に使われていましたが(当初は通称というより、「仁王像」「騎馬像」のようなカテゴリを表す普通名詞でしたが、その後、「乙女の像」といえば十和田湖、となっていった感じです)、「みちのく」という愛称も既に広く使われていたのは発見でした。
それにしても、一芸術家が帰村したのしないの、また上京してしまったのと、いちいち大きく取り上げるあたり、時代背景というものもありましょうが、いかに花巻や太田村の人々に光太郎が愛されていたかの証左だな、とも感じました。また、光太郎の談話からは、逆に光太郎がどれだけ花巻や太田村を愛していたのかも読み取れますね。
この日は(というか、この日も)、花巻南温泉峡・大沢温泉さんに宿泊。
そこで、花巻市立図書館さんへ。
まず「郷土資料室」という部屋があり、光太郎関連で目新しい発見がないか、チェック。残念ながら、コピーを取る必要のあるものは発見出来ませんでした。
続いて「新聞資料室」。戦中・戦後の光太郎が花巻町及び郊外旧太田村にいた時期の新聞で、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎の談話や講演筆記などが載っていないか、というわけです。ところが、光太郎がいた時期の新聞はあまりありませんでした。最も調べたいと思っていた『花巻新報』(題字揮毫、光太郎)は、光太郎帰京後の昭和30年代からのものしか所蔵されていません。それでも光太郎関係の記事は散見されるのですが、それらは既知。
しかし『岩手日報』は、昭和28年(1953)からのものが所蔵されており、そちらを拝見。光太郎、昭和27年(1952)には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京していますが、昭和28年(1953)11月から12月にかけ、一時的に郊外旧太田村に帰っていますので、その頃の記事を調べました。
すると……
まず光太郎が太田村に帰ってくると聞きつけた記者が、東京中野の貸しアトリエを訪問しての記事。光太郎を「六十九歳」としているのは誤りで、この時、満で70歳、数えで71歳です。光太郎の談話が笑えますね(笑)。1年ちょっとぶりに太田村に帰るということで、ウキウキしていたのかもしれません。
そして、花巻駅に下り立ったという記事。
続いて太田村の山小屋に帰って。この時の記事が一番面積を取っていました。
さらに、再上京についても。
光太郎の言葉と、地の文と、もっと明確に分けて書けよ、と突っ込みを入れたくなりましたが、貴重な記録ではあります。
意外だったのは、「十和田湖畔の裸婦群像」を「みちのく」と表記していること。「乙女の像」という通称も既に使われていましたが(当初は通称というより、「仁王像」「騎馬像」のようなカテゴリを表す普通名詞でしたが、その後、「乙女の像」といえば十和田湖、となっていった感じです)、「みちのく」という愛称も既に広く使われていたのは発見でした。
それにしても、一芸術家が帰村したのしないの、また上京してしまったのと、いちいち大きく取り上げるあたり、時代背景というものもありましょうが、いかに花巻や太田村の人々に光太郎が愛されていたかの証左だな、とも感じました。また、光太郎の談話からは、逆に光太郎がどれだけ花巻や太田村を愛していたのかも読み取れますね。
この日は(というか、この日も)、花巻南温泉峡・大沢温泉さんに宿泊。
直近2回(昨年12月、今年3月)は、一人旅ではなかったため、ちょっと高級な山水閣さんに泊まりましたが、今回はホームグラウンド的な自炊部さんに。
ちょっと高級な山水閣さんは、それはそれでいいのですが、やはり自炊部さんのこの狭さ風情がたまりません(笑)。
現代の『岩手日報』さん。花巻東高校出身の大谷翔平選手が一面トップ(笑)。
現代の岩手人はとにかく大谷ラブなのでしょう。
そして露天風呂。
何らのしがらみも無ければ、ここ(自炊部)で暮らしたいくらいです(笑)。
ちなみに廊下には、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」のポスターを貼って下さっていました。ありがたし。
翌日、レンタカーを新花巻駅前の営業所に返し、新幹線で盛岡へ。盛岡駅前の営業所返却にすればよかったかなとも思いましたが、今回はなかなか旅の行程を決めるのに手間取り、そうなってしまいました。
盛岡では岩手県立図書館さんへ。昨日に続き、郷土資料や昔の新聞で調査です。花巻市立図書館さんには揃っていなかった『花巻新報』もこちらではコンプリートされており、昨日同様、昭和28年(1953)の光太郎帰村前後を調べました(それ以前の号は一昨年に調査済み)。
すると、花巻市立図書館さんでコピーを取った『岩手日報』同様、やはり帰村の件が記事になっていました。
「来春六月にはまた帰るよ」といって、再上京した光太郎。他の文献等でも、この時期、東京と岩手での二重生活を目論んでいたことが記されていましたが、それが裏付けられました。しかし、その念願は叶わず、結局は東京で療養生活を送ることになってしまい、再び岩手の土を踏むことはありませんでした。
「九州に建てる胸像」は、未完成のまま絶作となった「倉田雲平胸像」です。
また、同じく昭和28年(1953)9月の、宮沢賢治を追悼する賢治祭の記事。
太田村在住中には、ほぼ欠かさず出席し、講話や講演を行っていた光太郎ですが、この年は上京していたため欠席。しかし、当会の祖・草野心平にメッセージの原稿を預け、心平が代読していました。『花巻新報』にこれが載っていたという情報は得ていませんでしたので、こりゃ新発見だろう、と期待しましたが、帰ってから調べましたところ、『高村光太郎全集』第8巻に「一言」の題名で載っていました。どうも心平が原稿を保存していて、全集編集に当たった当会顧問であらせられた故・北川太一先生に渡したようです。『花巻新報』に載っていたのがわかった、という意味では新事実と言える事柄ですが。
それから、岩手で出版された書籍等から、光太郎関連のいろいろな記述等を見つけました。高橋峯次郎関係、宮静枝関係など。
また、光太郎作の彫像「大倉喜八郎の首」についても、当方の知らなかった事実(とおぼしき事柄)が判明しました。
この像、大正15年(1926)の作ですが、しばらく光太郎の手許を離れていて、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳から光太郎に返却されました。なぜ堀江が持っていたのか、その経緯を当方は知らなかったのですが、『北の文学』という地方同人誌の第3号(昭和32年=1957)に、そのいきさつが記されていました。古館勝一という人物の書いた「高村光太郎ノート」という随筆とも評論ともつかない文章でしたが、それによれば堀江が戦時中に駒込林町の光太郎住居兼アトリエを訪れた際、空襲を危惧していた光太郎が、何か作品を預かってくれと言うので、堀江が「では、これを」と預かったそうです。
上記画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の一コマ。太田村の山小屋で光太郎が「大倉喜八郎の首」を手に取っているシーンです。昭和28年(1953)の帰村は、この映画の撮影のためという側面もありました。
上記『岩手日報』記事中の光太郎談話に「山口部落の人々には驚いた。残して行った作物を留守中ちゃんと置いてある。誰も持って行かない。」とあります。「作物」は「さくもつ」と読めば「農作物」ということになりますが、それでは意味が通じません。「さくぶつ」と読んで、小屋に置きっぱにしていった「大倉喜八郎の首」や、書の作品、と読めば意味が解ります。そういうことなのではないでしょうか。
さて、こうした図書館等での調査、当方は3~4時間が限界です。それ以上続けると、集中力が途切れ、大事な記述等を見落とします。集中に優れた人は丸一日でも大丈夫なのでしょうが(笑)。そこでこの日も正午過ぎに調査終了。まだ『新岩手日報』やら、当たるべき資料が結構あるので、またの機会と致します。
以上、長々書きましたが、岩手レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
岩手の佐藤ひろしさん椛澤佳乃子さんくる、一緒に新宿、火の車、吾妻橋ビヤホール、江戸ツ子天ぷらにゆき東京駅で別れる、
「佐藤ひろしさん」は、旧太田村の光太郎の山小屋近くの開拓地に入植していた青年で、かつては光太郎の山小屋を毎日のように訪れ、光太郎のパシリ的なこともやっていました(笑)。口さがない人々は「金魚のフン」と蔑んでいましたが、光太郎はこの青年を随分とかわいがっていました。
誤解を招く書き方ですが「岩手の」が修飾しているのは「佐藤弘さん」のみで、「椛澤佳乃子さん」は東京在住。ただ、旧太田村の山小屋もたびたび訪れていましたので、佐藤青年とも顔なじみだったようです。
ちょっと高級な山水閣さんは、それはそれでいいのですが、やはり自炊部さんのこの
現代の『岩手日報』さん。花巻東高校出身の大谷翔平選手が一面トップ(笑)。
現代の岩手人はとにかく大谷ラブなのでしょう。
そして露天風呂。
何らのしがらみも無ければ、ここ(自炊部)で暮らしたいくらいです(笑)。
ちなみに廊下には、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」のポスターを貼って下さっていました。ありがたし。
翌日、レンタカーを新花巻駅前の営業所に返し、新幹線で盛岡へ。盛岡駅前の営業所返却にすればよかったかなとも思いましたが、今回はなかなか旅の行程を決めるのに手間取り、そうなってしまいました。
盛岡では岩手県立図書館さんへ。昨日に続き、郷土資料や昔の新聞で調査です。花巻市立図書館さんには揃っていなかった『花巻新報』もこちらではコンプリートされており、昨日同様、昭和28年(1953)の光太郎帰村前後を調べました(それ以前の号は一昨年に調査済み)。
すると、花巻市立図書館さんでコピーを取った『岩手日報』同様、やはり帰村の件が記事になっていました。
「来春六月にはまた帰るよ」といって、再上京した光太郎。他の文献等でも、この時期、東京と岩手での二重生活を目論んでいたことが記されていましたが、それが裏付けられました。しかし、その念願は叶わず、結局は東京で療養生活を送ることになってしまい、再び岩手の土を踏むことはありませんでした。
「九州に建てる胸像」は、未完成のまま絶作となった「倉田雲平胸像」です。
また、同じく昭和28年(1953)9月の、宮沢賢治を追悼する賢治祭の記事。
太田村在住中には、ほぼ欠かさず出席し、講話や講演を行っていた光太郎ですが、この年は上京していたため欠席。しかし、当会の祖・草野心平にメッセージの原稿を預け、心平が代読していました。『花巻新報』にこれが載っていたという情報は得ていませんでしたので、こりゃ新発見だろう、と期待しましたが、帰ってから調べましたところ、『高村光太郎全集』第8巻に「一言」の題名で載っていました。どうも心平が原稿を保存していて、全集編集に当たった当会顧問であらせられた故・北川太一先生に渡したようです。『花巻新報』に載っていたのがわかった、という意味では新事実と言える事柄ですが。
それから、岩手で出版された書籍等から、光太郎関連のいろいろな記述等を見つけました。高橋峯次郎関係、宮静枝関係など。
また、光太郎作の彫像「大倉喜八郎の首」についても、当方の知らなかった事実(とおぼしき事柄)が判明しました。
この像、大正15年(1926)の作ですが、しばらく光太郎の手許を離れていて、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳から光太郎に返却されました。なぜ堀江が持っていたのか、その経緯を当方は知らなかったのですが、『北の文学』という地方同人誌の第3号(昭和32年=1957)に、そのいきさつが記されていました。古館勝一という人物の書いた「高村光太郎ノート」という随筆とも評論ともつかない文章でしたが、それによれば堀江が戦時中に駒込林町の光太郎住居兼アトリエを訪れた際、空襲を危惧していた光太郎が、何か作品を預かってくれと言うので、堀江が「では、これを」と預かったそうです。
上記画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の一コマ。太田村の山小屋で光太郎が「大倉喜八郎の首」を手に取っているシーンです。昭和28年(1953)の帰村は、この映画の撮影のためという側面もありました。
上記『岩手日報』記事中の光太郎談話に「山口部落の人々には驚いた。残して行った作物を留守中ちゃんと置いてある。誰も持って行かない。」とあります。「作物」は「さくもつ」と読めば「農作物」ということになりますが、それでは意味が通じません。「さくぶつ」と読んで、小屋に置きっぱにしていった「大倉喜八郎の首」や、書の作品、と読めば意味が解ります。そういうことなのではないでしょうか。
さて、こうした図書館等での調査、当方は3~4時間が限界です。それ以上続けると、集中力が途切れ、大事な記述等を見落とします。集中に優れた人は丸一日でも大丈夫なのでしょうが(笑)。そこでこの日も正午過ぎに調査終了。まだ『新岩手日報』やら、当たるべき資料が結構あるので、またの機会と致します。
以上、長々書きましたが、岩手レポートを終わります。
【折々のことば・光太郎】
岩手の佐藤ひろしさん椛澤佳乃子さんくる、一緒に新宿、火の車、吾妻橋ビヤホール、江戸ツ子天ぷらにゆき東京駅で別れる、
昭和28年(1953)7月12日の日記より 光太郎71歳
「佐藤ひろしさん」は、旧太田村の光太郎の山小屋近くの開拓地に入植していた青年で、かつては光太郎の山小屋を毎日のように訪れ、光太郎のパシリ的なこともやっていました(笑)。口さがない人々は「金魚のフン」と蔑んでいましたが、光太郎はこの青年を随分とかわいがっていました。
誤解を招く書き方ですが「岩手の」が修飾しているのは「佐藤弘さん」のみで、「椛澤佳乃子さん」は東京在住。ただ、旧太田村の山小屋もたびたび訪れていましたので、佐藤青年とも顔なじみだったようです。