昨日は、埼玉県に行っておりました。
メインの目的は、同県東松山市の生涯教育施設「きらめき市民大学」さんでの講座。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があったため、そのご縁です。田口氏は市内の小学校に光太郎碑を建てられたり、同じく光太郎と交流のあった高田博厚とも親交を深め、光太郎胸像を含む高田の彫刻作品群からなる「高坂彫刻プロムナード」整備にも骨を折られたりしました。また、亡くなる前に光太郎からの書簡や書などを市に寄贈。現在、市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として展示されています。
午前10時半開講ですが、圏央道を使って約1時間半、途中、事故渋滞でもあったらアウトなので、余裕を十分にもって自宅兼事務所を出発。結局、何事もなかったためかなり早く着きました。こうした場合に、東松山市は時間がいくらでもつぶせる街です。
まず市役所さん。ロビーに高田の彫刻を新たに展示し始めたというので、拝見。
やはり光太郎と交流のあった詩人・中野重治の像でした。高田を紹介する解説版には光太郎の名も。
高坂彫刻プロムナードの案内。
まだ時間がありましたので、市立図書館さんへ。久しぶりに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」を拝見。
光太郎から贈られた品々、光太郎歿後に田口氏が集められた品々など、出品物を替えながら展示されています。
最も目を引くのは、聖書の一節を書いた光太郎の大きな書。敬虔なキリスト教徒でもあられた田口氏のご子息誕生祝いに、光太郎から贈られました。曰く「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。聖書の文言を大書したものは他に類例がなく、昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただきました。ただし、こちらで展示されているのは、後の書簡を含め、複製です。
光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)詩碑拓本。
光太郎から田口氏宛書簡類。
その他の書など。
光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の風景を描いたスケッチ。
智恵子及び生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のためのデッサン。
これから光太郎について語る上で、これらを見てテンション爆上がりとなりました(笑)。
そして会場に。
パワーポイントのスライドショーを使いながら、約90分。前半は光太郎の人となり、休憩を挟んで後半は田口氏や高田との関連で、東松山市と光太郎のご縁について。皆さん、熱心にお聴き下さいました。有り難うございました。
講座修了後、そのまま帰らず、少し足を延ばしました。目指すは同じ埼玉県比企地域のときがわ町。東松山から20数㌔というところです。
目的地は正法寺さんという寺院。鎌倉時代創建の古刹です。
本堂前には、もうすぐ咲きそうな蓮の花。いい感じでした。
こちらには、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が納められています。平成11年(1999)、同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社さんの代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。
当方、寄進された頃(まだ「ときがわ町」が「都幾川村」でした)にも一度拝見に伺いましたが、20数年ぶりにもう一度見ておこうと思い立ち、お邪魔いたしました。ご住職に「これこれこういう者でして、拝見させて下さい」と申し上げると、快く見せて下さいました。20数年前に対応して下さったのはご先代で、今回はその息子さんでした。
20年以上経っても色あせず、鮮やかです。
もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の実弟にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたもの。般若心経がらみの書籍などで、よく取り上げられる筆跡です。
ちなみに、のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念ということで、高村家から大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。
本堂の外には、石川九楊氏による解説板。平成11年(1999)に寄進された際に作られたリーフレットに掲載されたものと同一でした。
帰りがけ、気さくなご住職、「こんな山の中までご苦労様です」と、ペットボトルの麦茶をお渡し下さいました。多謝。また、「展覧会等にお貸し願うことは可能でしょうか」と問うと、「全然かまいませんよ」とのこと。実は上記の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に、お借りできるものならお借りしようかとも考えたのですが、複製であることがネックで、その際は候補から外した経緯があります。今後、複製であっても構わないという展示等をお考えの関係の方、よろしくご検討下さい。
遅めの昼食を正法寺さんの近くの、古民家を改修した手打ちうどんのお店・「やすらぎの家」さんで。
事前に調べていったわけではありませんで、たまたまこういうお店があったので入りました。「ふるカフェ系 ハルさん」ではありませんが、古建築好きの当方としましては、またまたテンション爆上がりでした(笑)。
もちろん、手打ちうどんも美味しく頂きました。
さて、東松山市光太郎関連各所、ときがわ町正法寺さんなど、ぜひ足をお運び下さい。また、このあたり、比企郡ということで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連でも盛り上がっています。
【折々のことば・光太郎】
夕六時半南江氏の車迎にくる、日比谷公会堂アンダソン夫人独唱会、
「南江氏」は南江二郎、詩人にして人形劇研究家でもありました。「アンダソン夫人」はマリアン・アンダーソン、アメリカの歌手で、黒人として初めてニューヨークのメトロポリタン・オペラの舞台で歌い、人種差別撤廃のための活動を行いました。
メインの目的は、同県東松山市の生涯教育施設「きらめき市民大学」さんでの講座。同市の教育長を永らく務められた故・田口弘氏が生前の光太郎と交流があったため、そのご縁です。田口氏は市内の小学校に光太郎碑を建てられたり、同じく光太郎と交流のあった高田博厚とも親交を深め、光太郎胸像を含む高田の彫刻作品群からなる「高坂彫刻プロムナード」整備にも骨を折られたりしました。また、亡くなる前に光太郎からの書簡や書などを市に寄贈。現在、市立図書館さんで「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として展示されています。
午前10時半開講ですが、圏央道を使って約1時間半、途中、事故渋滞でもあったらアウトなので、余裕を十分にもって自宅兼事務所を出発。結局、何事もなかったためかなり早く着きました。こうした場合に、東松山市は時間がいくらでもつぶせる街です。
まず市役所さん。ロビーに高田の彫刻を新たに展示し始めたというので、拝見。
やはり光太郎と交流のあった詩人・中野重治の像でした。高田を紹介する解説版には光太郎の名も。
高坂彫刻プロムナードの案内。
まだ時間がありましたので、市立図書館さんへ。久しぶりに「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」を拝見。
光太郎から贈られた品々、光太郎歿後に田口氏が集められた品々など、出品物を替えながら展示されています。
最も目を引くのは、聖書の一節を書いた光太郎の大きな書。敬虔なキリスト教徒でもあられた田口氏のご子息誕生祝いに、光太郎から贈られました。曰く「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。聖書の文言を大書したものは他に類例がなく、昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただきました。ただし、こちらで展示されているのは、後の書簡を含め、複製です。
光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)詩碑拓本。
光太郎から田口氏宛書簡類。
その他の書など。
光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の風景を描いたスケッチ。
智恵子及び生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のためのデッサン。
これから光太郎について語る上で、これらを見てテンション爆上がりとなりました(笑)。
そして会場に。
パワーポイントのスライドショーを使いながら、約90分。前半は光太郎の人となり、休憩を挟んで後半は田口氏や高田との関連で、東松山市と光太郎のご縁について。皆さん、熱心にお聴き下さいました。有り難うございました。
講座修了後、そのまま帰らず、少し足を延ばしました。目指すは同じ埼玉県比企地域のときがわ町。東松山から20数㌔というところです。
目的地は正法寺さんという寺院。鎌倉時代創建の古刹です。
本堂前には、もうすぐ咲きそうな蓮の花。いい感じでした。
こちらには、光太郎筆の般若心経を陶板焼成した衝立が納められています。平成11年(1999)、同じ埼玉の川越市に本社がある光兆産業株式会社さんの代表取締役・渡瀬武夫氏の寄進で、陶板制作は大塚オーミ陶業さん、額の制作は全国建具組合連合会特選理事・技術委員長(当時)の原口竹春氏です。
当方、寄進された頃(まだ「ときがわ町」が「都幾川村」でした)にも一度拝見に伺いましたが、20数年ぶりにもう一度見ておこうと思い立ち、お邪魔いたしました。ご住職に「これこれこういう者でして、拝見させて下さい」と申し上げると、快く見せて下さいました。20数年前に対応して下さったのはご先代で、今回はその息子さんでした。
20年以上経っても色あせず、鮮やかです。
もとになった般若心経は、大正13年(1924)、光太郎の実弟にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の子供が夭折した際、光太郎が豊周に「これ、霊前に」といって持ってきたもの。般若心経がらみの書籍などで、よく取り上げられる筆跡です。
ちなみに、のちに昭和37年(1962)の第6回連翹忌で、光太郎の七回忌記念ということで、高村家から大塚巧藝社さんによる複製が配布されました。
本堂の外には、石川九楊氏による解説板。平成11年(1999)に寄進された際に作られたリーフレットに掲載されたものと同一でした。
帰りがけ、気さくなご住職、「こんな山の中までご苦労様です」と、ペットボトルの麦茶をお渡し下さいました。多謝。また、「展覧会等にお貸し願うことは可能でしょうか」と問うと、「全然かまいませんよ」とのこと。実は上記の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に、お借りできるものならお借りしようかとも考えたのですが、複製であることがネックで、その際は候補から外した経緯があります。今後、複製であっても構わないという展示等をお考えの関係の方、よろしくご検討下さい。
遅めの昼食を正法寺さんの近くの、古民家を改修した手打ちうどんのお店・「やすらぎの家」さんで。
事前に調べていったわけではありませんで、たまたまこういうお店があったので入りました。「ふるカフェ系 ハルさん」ではありませんが、古建築好きの当方としましては、またまたテンション爆上がりでした(笑)。
もちろん、手打ちうどんも美味しく頂きました。
さて、東松山市光太郎関連各所、ときがわ町正法寺さんなど、ぜひ足をお運び下さい。また、このあたり、比企郡ということで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連でも盛り上がっています。
【折々のことば・光太郎】
夕六時半南江氏の車迎にくる、日比谷公会堂アンダソン夫人独唱会、
昭和28年(1953)5月25日の日記より 光太郎71歳
「南江氏」は南江二郎、詩人にして人形劇研究家でもありました。「アンダソン夫人」はマリアン・アンダーソン、アメリカの歌手で、黒人として初めてニューヨークのメトロポリタン・オペラの舞台で歌い、人種差別撤廃のための活動を行いました。