一昨日、横浜及び都内を歩いておりました。

まず、横浜の日本郵船歴史博物館さん。こちらでは、過日ご紹介した企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」が開催されており、雑誌『海運報国』には光太郎も複数回寄稿していますので、光太郎関連の展示も為されているのではと思って拝見に伺いました。

10年前にもお邪魔し、その際は常設展示のみだったように記憶していましたが、それにしても10年経つか、と、ちょっぴり感慨にひたりました。
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常設展示の一角に、企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」のコーナーという形でしたが、残念ながら、光太郎に関する展示はありませんでした。
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『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。」という触れ込みだったので、そういうことなら光太郎は外せないだろ、と思っていたのですが……。

とりあげられていた文士等は、日本郵船さんの嘱託だった内田百閒をはじめ、宮城道雄、米川正夫、吉屋信子、岩田豊雄、津田青楓、西条八十、林芙美子、鈴木信太郎、辰野隆、小堀杏奴、深尾須磨子、田中貢太郎。それはそれで興味深く拝見しましたが……。

なぜここに光太郎の名がないのか、次のような理由が考えられます。

① 担当された方が光太郎の名を誌面に見つけたものの、「高村光太郎? 誰、それ? 知らん!」とスルー。
② 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけたものの、「こいつは3流だから」とパス。
③ 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけられなかった。
④ その他。


①、②であってほしくないものです(笑)。最も考えられるのは③かな、と。

ただ、④の可能性もなきにしもあらず。例えば、光太郎、『海運報国』には確認出来ている限り4回寄稿していますが、そのうち3回、「乏しきに対す」(第3巻第7号  昭18=1943 7/15) 、「決戦時生活の基礎倫理」(第4巻第1号  昭19=1944 1/15)、「神裔国民の品性」(第4巻第2号  昭19=1944 2/15)は、コッテコテの大政翼賛文。おそらく最初の寄稿の「海の思出」(第2巻第10号 昭17=1942 10/15)    は、戦争とはほとんど関係ないものの、日本郵船さんの船名を誤記していることなどが無視された原因かも知れません。

光太郎、明治42年(1909)5月、3年余に及ぶ欧米留学を切り上げ、イギリスのテムズ河口から日本郵船さんの「阿波丸」 に乗り込んで、帰国の途に就きました。当時書かれた文章にはちゃんと「阿波丸」と書かれています。ところが、約30年後に書かれた「海の思出」では「松山丸」と書いてしまいました。日本郵船さんには「松山丸」という船舶もありましたが、欧州航路で使われたものではありません。

ちなみに下記は光太郎が乗った「阿波丸」。最近手に入れた古絵葉書です。
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常設展示の方で、この手の昔の航路について、その歴史や背景などが詳しく説明されており、そちらも興味深く拝見いたしました。

追記、どうも『海運報国』ちがいのようでした。「『海運報国』の件、これは同タイトルの別雑誌と思われます。日本郵船歴史博物館で取り上げていたのは、日本郵船社内にある「郵船海運報国会」が発行した従業員向け機関誌で昭和14年5月創刊、18年3月号で廃刊。高村光太郎の著作が掲載されているのは「日本海運報国団」発行した『海運報国』。日本近代文学館の図書検索で確認したところ、こちらは昭和16年1月に創刊されたとあります。」とのコメントを頂きました。

上記絵葉書等、7月16日(土)から花巻高村光太郎記念館さんで開催される企画展「光太郎 海を航る」(仮称)で展示予定です。同展、今日付の『広報はなまき』で告知されているかな、と思ったのですが、ありませんでした。何だかなぁ……という感じですが……。また詳細が出ましたらご紹介します。

KIMG6381横浜を後に、都内へ。続いて向かったのは、九段下の昭和館さん。こちらは「昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を展示」ということで、主に戦時中のいろいろな品々を全国から寄贈を募り、展示している施設です。ただ、現在は映像、図書のみ寄贈を受け付けているそうです。

時間の都合もあり、展示は拝見しませんで、図書室に向かいました。こちらの図書室、なかなかのものです。開架でもかなりの数の図書がありますし、閉架(書庫)の蔵書数もすごいようです。そして、検索システムが素晴らしい!

特に利用者登録も必要なく、自宅兼事務所のPCからアクセスし、「フリーワード」の項に「高村光太郎」と入力、検索をかけると、目次に光太郎の名が記された資料がダーッと出て来ます。それだけなら他の館でもそうなのですが、こちらのシステムは、おのおのの図書の目次が詳細に表示されるのです。さらに「フリーワード」で入力した「高村光太郎」の文字がハイライト表示で、長い目次の中でもすぐに見つけられます。その意味では国会図書館さんの「デジタルコレクション」とよく似ています。ここまでやってくださると、研究者にとっては「ありがたい」の一言です。
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007ただ、国会図書館さんのそれとは異なり、デジタルデータでそのページを閲覧することは出来ませんので、出向いて閲覧するという訳です。そこで、事前に調べた結果、残念ながら『高村光太郎全集』未収録の光太郎本人の文筆作品等は見つかりませんでしたが、光太郎について書かれた諸家の文章等で未知のものがあり、閲覧、さらにコピーを取って参りました。

中には光太郎の似顔絵が入ったものも。昭和16年(1941)ですから、光太郎59歳。当時の光太郎にしては少し髪が多すぎるようにも思えますが(笑)。

昭和館さん、他にも映像・音響室なども充実しているようですし、通常の展示ももちろん拝見しようと思いますので、また機会を見つけて足を運ぼうと思いました。何かお調べになりたいという方、ぜひ当たってみて下さい。

一昨日は、もう1箇所廻ろうかとも思っていたのですが、またじわりとコロナ感染者数が上がってきましたし、加えて殺人的な暑さ。またの機会に致します。

【折々のことば・光太郎】

夜十時頃水谷八重子、草野心平、松竹の人三人くる、「智恵子抄」の事については再考を求める、十二時過辞去、承諾保留、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

e28cae2a水谷八重子」は初代・水谷八重子。光太郎は遠く大正9年(1920)に、子役時代の水谷が出演した舞台「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ています。その後、友人の田村松魚に送った葉書には「チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよいと抱いてやりたい気のする子でした」と書いています。

智恵子抄」は、光太郎とも交流のあった劇作家・北条秀司の脚本。結局、光太郎生前には舞台化は実現せず、初演は光太郎歿後の昭和32年(1957)でした。光太郎、自分が俳優によって演じられるのに難色を示したようです。光太郎訳は新派の大矢市次郎でした。

北条の「智恵子抄」は、水谷/大矢の後、富司純子さん/故・高島忠夫さん有馬稲子さん/故・高橋昌也さんでも公演がなされました。そして昨秋、「朗読劇 智恵子抄」として、一色采子さん、横内正さんでも。

また後ほど詳しくご紹介しますが、「朗読劇 智恵子抄」は、今秋、再演が決定しました。光太郎役は松村雄基さんだそうです。