ネタがなければ足で探せ、というわけで、一昨日、昨日と、ふらふら出歩いておりました(笑)。
一昨日は、自宅兼事務所隣町の成田市へ。こちらでは、以下の展示が開催中です。
一昨日は、自宅兼事務所隣町の成田市へ。こちらでは、以下の展示が開催中です。
関東の山車人形と成田祇園祭展
期 日 : 2022年6月4日(土)~7月10日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリー 千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料
料 金 : 無料
成田山奥之院の祭禮(成田山祇園会)について、文献では享保6年(1721年)には行われていたとの記載があり、これを起源とすると令和3年(2021年)に300年の節目を迎えました。昨年開催されました「関東の山車人形と成田祇園祭展」は盛況のうちに終了することができ、今年は3年ぶりに開催される成田祇園祭を盛り上げるため、昨年に引き続き、「関東の山車人形と成田祇園祭展」を開催いたします。
前期(6/4~6/19)はスカイタウンギャラリー4階では歌舞伎をモチーフにした作品に加え、本展にちなんだ浮世絵を、5階では成田祇園祭の歴史を紹介したパネルやミニチュアの山車などの展示を行います。
後期(6/25~7/10)は4階では関東各地の歴史ある作品と前期に引き続き浮世絵を、5階ではおとぎ話の主人公である桃太郎など魅力あふれる作品と前期に引き続き成田祇園祭に関する展示を行います。
成田市で開催される山車祭り「成田祇園祭(成田山祇園会)」に合わせ、成田以外にも、関東各地の山車祭りで山車の上に飾られる人形などを借りてきて展示するものです。昨年も開催されていたそうですが、存じませんでした。
このうち、8月上旬に行われる群馬県桐生市の「桐生祇園祭」では、松本喜三郎の生人形(いきにんぎょう)が使われているということで、その展示もあり、「これは見てみたい」と思って参上しました。
4月に神奈川の平塚市美術館さんで開催された「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」で、光太郎の父・光雲の木彫も出るというので拝見に行きましたが、その際、喜三郎の生人形も展示されていて、その迫力に圧倒されました。喜三郎は光雲も絶賛した生人形師です。そして同展の図録を兼ねた書籍『リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと』を拝読、明治になって西洋から伝わった写実表現とは別系統で、生人形などに日本独自の超絶写実の技法があったことにも注目すべし、的な内容で「なるほど」と思わされました。
その喜三郎の作品。
それから、意外だったのが、人形師たちの肩書き。上の方の画像にもありますが「法橋(ほっきょう)」を名乗っている者が複数いました。
これは、「僧綱(そうごう)」の一種で、本来は僧侶の位階なのですが、名誉称号として仏師にも与えられました。「法橋上人位(僧正階)」、「法眼和尚位(僧都階)」、「法印大和尚位(律師階)」などがあり、平安時代の仏師定朝が、仏師として初めて「法橋位」に補任され、のちに興福寺の復興の功績で「法眼位」に進みました。その弟子長勢は法勝寺造仏の賞として最高位の「法印位」に補任。以後、名のある仏師は僧位を叙せられる習慣となります。
実は光太郎の父・光雲も「法橋位」。国指定重要文化財の「老猿」背部に刻まれた銘には「法橋高村光雲」とあります。光雲の師・高村東雲、更にその師・高橋鳳雲は「法眼位」でした。ただ、江戸期や明治期、誰がその位階を授けたのか(自称ということは有り得ないと思います)、当方、寡聞にして存じません。この辺りも詳しい方、御教示いただければ幸いです。
そして、人形師にも光雲と同じ「法橋位」がいたというのがわかり、「へー」という感じでした。専門の方にとっては当たり前のことなのかも知れませんが(笑)。
その他。
「成田祇園祭(成田山祇園会)」過去のポスター、山車のミニチュア。
かつて江戸の神田明神でも行われていた山車祭りなどの錦絵。明治期までは山車が出ていたそうで。
今回の展示に人形を貸し出して下さった関東各地の各祭礼の地図。
成田市で開催される山車祭り「成田祇園祭(成田山祇園会)」に合わせ、成田以外にも、関東各地の山車祭りで山車の上に飾られる人形などを借りてきて展示するものです。昨年も開催されていたそうですが、存じませんでした。
このうち、8月上旬に行われる群馬県桐生市の「桐生祇園祭」では、松本喜三郎の生人形(いきにんぎょう)が使われているということで、その展示もあり、「これは見てみたい」と思って参上しました。
4月に神奈川の平塚市美術館さんで開催された「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」で、光太郎の父・光雲の木彫も出るというので拝見に行きましたが、その際、喜三郎の生人形も展示されていて、その迫力に圧倒されました。喜三郎は光雲も絶賛した生人形師です。そして同展の図録を兼ねた書籍『リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと』を拝読、明治になって西洋から伝わった写実表現とは別系統で、生人形などに日本独自の超絶写実の技法があったことにも注目すべし、的な内容で「なるほど」と思わされました。
その喜三郎の作品。
なるほど、見事でした。
他の人形師たちの作品も、「ほう」と思わせられるものばかり。
ただ、「生人形」と、「生」がつかない人形との区別はどう定義されるのだろうと、疑問が湧きました。手の表し方など、下記のように血管まで作っているものは「生人形」と言っていいのかとも思うのですが、どうなのでしょう。詳しい方、御教示いただければ幸いです。それから、意外だったのが、人形師たちの肩書き。上の方の画像にもありますが「法橋(ほっきょう)」を名乗っている者が複数いました。
これは、「僧綱(そうごう)」の一種で、本来は僧侶の位階なのですが、名誉称号として仏師にも与えられました。「法橋上人位(僧正階)」、「法眼和尚位(僧都階)」、「法印大和尚位(律師階)」などがあり、平安時代の仏師定朝が、仏師として初めて「法橋位」に補任され、のちに興福寺の復興の功績で「法眼位」に進みました。その弟子長勢は法勝寺造仏の賞として最高位の「法印位」に補任。以後、名のある仏師は僧位を叙せられる習慣となります。
実は光太郎の父・光雲も「法橋位」。国指定重要文化財の「老猿」背部に刻まれた銘には「法橋高村光雲」とあります。光雲の師・高村東雲、更にその師・高橋鳳雲は「法眼位」でした。ただ、江戸期や明治期、誰がその位階を授けたのか(自称ということは有り得ないと思います)、当方、寡聞にして存じません。この辺りも詳しい方、御教示いただければ幸いです。
そして、人形師にも光雲と同じ「法橋位」がいたというのがわかり、「へー」という感じでした。専門の方にとっては当たり前のことなのかも知れませんが(笑)。
その他。
「成田祇園祭(成田山祇園会)」過去のポスター、山車のミニチュア。
かつて江戸の神田明神でも行われていた山車祭りなどの錦絵。明治期までは山車が出ていたそうで。
今回の展示に人形を貸し出して下さった関東各地の各祭礼の地図。
なぜか、隣町であるにもかかわらず、当方自宅兼事務所のある香取市の山車祭り(他の複数の山車祭りと一括でユネスコ世界文化遺産にも指定されています)がありませんでした。やはり光雲が絶賛したという三代安本亀八の生人形を乗せた山車が複数ありますし、他の人形も今回展示されている作品と較べても、勝るとも劣らないものばかりなのですが……。どうも何らかの「大人の事情」があったとしか思えません。
それにしても、こうした人形の系統、もっともっと評価されていいものだと思われます。成田での展示、7月10日(日)まで。会場はJR成田駅前、京成成田駅もすぐ近くです。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
大悟法利雄氏くる、講道館雑誌の事、断り、
「大悟法利雄」は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。
大悟法はこの日の出来事を含む戦前からの光太郎回想を書き残し、『文壇詩壇歌壇の巨星たち』平成10年=1998 短歌新聞社)に収められています。
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
柔道初段の当方としては、光太郎の全日本選手権観戦記をぜひ読みたかったところでしたが(笑)。
前田光世(みつよ)は、講道館黎明期の柔道家。ブラジルのグレイシー柔術の祖としても知られています。光太郎より1年早く、明治37年(1904)に柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。
それにしても、こうした人形の系統、もっともっと評価されていいものだと思われます。成田での展示、7月10日(日)まで。会場はJR成田駅前、京成成田駅もすぐ近くです。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
大悟法利雄氏くる、講道館雑誌の事、断り、
昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳
「大悟法利雄」は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。
大悟法はこの日の出来事を含む戦前からの光太郎回想を書き残し、『文壇詩壇歌壇の巨星たち』平成10年=1998 短歌新聞社)に収められています。
光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。
柔道初段の当方としては、光太郎の全日本選手権観戦記をぜひ読みたかったところでしたが(笑)。
前田光世(みつよ)は、講道館黎明期の柔道家。ブラジルのグレイシー柔術の祖としても知られています。光太郎より1年早く、明治37年(1904)に柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。