どうもネタ不足に陥りつつありまして、昨日もご紹介した紫陽花ネタでもう1日、引っ張らせていただきます。
昨日は、紫陽花がモチーフの智恵子紙絵を原画とした神戸文化ホールさんの巨大壁画についてでしたが、光太郎詩にも紫陽花が謳われているものがあります。ただし、花が枯れてしまってからの様子ですが……。
昭和12年(1937)12月の作品で、翌年の『中外商業新聞』に発表されました。一読し、身辺に大きな変化が訪れているけれど、決意を新たに頑張ろう、的な内容に読めます。
この年は日中戦争が勃発した年なので、その意味では生活も大きく変わった部分があったと思われます。そして、そうした外的環境もさることながら、光太郎の内面も大きく変わりつつありました。その要因は、智恵子。この時期、智恵子は「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)となり、南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り続ける毎日でした。
昨日は、紫陽花がモチーフの智恵子紙絵を原画とした神戸文化ホールさんの巨大壁画についてでしたが、光太郎詩にも紫陽花が謳われているものがあります。ただし、花が枯れてしまってからの様子ですが……。
未曾有の時
一切をかけて死んで生きる時だ。
さういふ時がもう其処に来てゐる。
迫り来るものは仮借せず、
悠久の物理に無益の表情はない。
吾が事なほ中道にあり、
世の富未だ必ずしも餓莩(がへう)を絶つに至らず、
人みな食へないままに食ひ
一寸先きの闇を衝いて生きる日、
枚(ばい)を銜んで迫り来るものは四辺に満ちる。
既に余が彫蟲の技は余を養はず、
心をととのへて独り坐れば
又年が暮れて歴日はあらためられる。
巷に子供ら声をあげて遊びたはむれ、
冬の日は穏かにあたたかく霜をくづし
紫陽花の葉は凋み垂れて風雅の陣を張り、
山雀は今年もチチと鳴いて窓を覗きこむ。
すべて人事を超えて窮まる処を知らない。
さればしづかに強くその時を邀(むか)へよう。
一切の始末を終へて平然と来るを待たう。
悉く傾けつくして裸とならう。
おもむろに迫る未曾有の時
むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。
清らかに起たう。
昭和12年(1937)12月の作品で、翌年の『中外商業新聞』に発表されました。一読し、身辺に大きな変化が訪れているけれど、決意を新たに頑張ろう、的な内容に読めます。
この年は日中戦争が勃発した年なので、その意味では生活も大きく変わった部分があったと思われます。そして、そうした外的環境もさることながら、光太郎の内面も大きく変わりつつありました。その要因は、智恵子。この時期、智恵子は「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)となり、南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り続ける毎日でした。
値(あ)ひがたき智恵子
智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。
智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。
智恵子をこうしてしまった原因の一つは、「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交渉を絶つ生活にもあったのではないかと、光太郎は反省します。そしてそうした生活を続けていては、自分もおかしくなるかも、と考えた可能性もあります。
こちらは戦後、戦時中の戦争責任を含め、自らの半生を省みて作られた連作詩「暗愚小伝」中の一篇。昭和22年(1947)の作です。
「これではいかん」というわけで……
智恵子をこうしてしまった原因の一つは、「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交渉を絶つ生活にもあったのではないかと、光太郎は反省します。そしてそうした生活を続けていては、自分もおかしくなるかも、と考えた可能性もあります。
美に生きる
私はやつと自己を得た。
言はうやうなき窮乏をつづけながら
私はもう一度美の世界にとびこんだ。
生来の離群性は
私を個の鍛冶に専念せしめて、
世上の葛藤にうとからしめた。
政治も経済も社会運動そのものさへも、
影のやうにしか見えなかつた。
智恵子と私とただ二人で
人に知られぬ生活を戦ひつつ
都会のまんなかに蟄居した。
二人で築いた夢のかずかずは
みんな内の世界のものばかり。
検討するのも内部生命
蓄積するのも内部財宝。
私は美の強い腕に誘導せられて
ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。
こちらは戦後、戦時中の戦争責任を含め、自らの半生を省みて作られた連作詩「暗愚小伝」中の一篇。昭和22年(1947)の作です。
「これではいかん」というわけで……
最低にして最高の道
もう止さう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止さう。
わたくし事のいざこざに
見にくい皺を縦によせて
この世を地獄に住むのは止さう。
こそこそと裏から裏へ
うす汚い企みをやるのは止さう。
この世の抜駆けはもう止さう。
さういふ事はともかく忘れて
みんなと一緒に大きく生きよう。
見えもかけ値もない裸のこころで
らくらくと、のびのびと、
あの空を仰いでわれらは生きよう。
泣くも笑ふもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。
こちらは智恵子没後の昭和15年(1940)の作ですが、最初に引用した「未曾有の時」にも通じる内容ですね。しかし、「みんなと一緒に」という方向に梶をきったものの、その「みんな」が「戦争」という狂瀾怒涛に呑み込まれて行き、さらには光太郎自身、その旗振り役とならざるを得なくなってしまったというのが、大いなる悲劇でした。
さて、紫陽花。
昨日は、神戸文化ホールさんの巨大壁画に原画として使われた智恵子紙絵をご紹介しましたが、他にも紫陽花をモチーフにした紙絵が存在します。上の「値(あ)ひがたき智恵子」の脇に載せたもの(『紙絵と詩 智恵子抄』昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫の表紙に使われました)も「おそらく紫陽花でしょうし、下記の紙絵も「あじさい」の題が付けられています。
いい感じですね。
ところで紫陽花。
昨日、御朱印マニアの妻と共に、茨城県潮来市の寺院に行って参りました。近年、「あじさい寺」として有名になってきた「二本松寺」という寺院です。智恵子の故郷、二本松とは無関係のようですが、変わった寺号ですね。
平成20年(2008)ごろから、ご住職がコツコツ紫陽花を増やし、目標1万株を達成、「あじさいの杜」として有料公開を始めて、テレビ等でも紹介されるようになりました。昨日も盛況。当方らはまだすいていた午前中に訪れましたが、帰る際には駐車場待ちの車で渋滞が発生していました。
1万株、たしかに見応えがありました。
さらにすごいと思ったのは、近年開発されたと思われる、いろいろな紫陽花が多いこと。「こんな紫陽花があるのか」的な。
智恵子が見たら、さぞ喜んだだろうと思いました。
都心からは遠いのですが、ぜひお越し下さい。
【折々のことば・光太郎】
篠田定吉氏くる、水野君碑の事、
「水野君」は水野葉舟。明治中期、『明星』以来の親友でしたが、昭和22年(1947)に歿しています。その歌碑を、葉舟の移り住んだ千葉成田の三里塚に立てる計画が持ち上がり、その件でしょう。「篠田定吉」は三里塚にほど近い印旛郡宗像村(現・印西市)在住の人物で、戦前から光太郎と面識がありました。
のちに歌碑の建設が具体化した頃、光太郎に碑面揮毫の依頼がありましたが、折悪しく健康がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を執りました。
こちらは智恵子没後の昭和15年(1940)の作ですが、最初に引用した「未曾有の時」にも通じる内容ですね。しかし、「みんなと一緒に」という方向に梶をきったものの、その「みんな」が「戦争」という狂瀾怒涛に呑み込まれて行き、さらには光太郎自身、その旗振り役とならざるを得なくなってしまったというのが、大いなる悲劇でした。
さて、紫陽花。
昨日は、神戸文化ホールさんの巨大壁画に原画として使われた智恵子紙絵をご紹介しましたが、他にも紫陽花をモチーフにした紙絵が存在します。上の「値(あ)ひがたき智恵子」の脇に載せたもの(『紙絵と詩 智恵子抄』昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫の表紙に使われました)も「おそらく紫陽花でしょうし、下記の紙絵も「あじさい」の題が付けられています。
いい感じですね。
ところで紫陽花。
昨日、御朱印マニアの妻と共に、茨城県潮来市の寺院に行って参りました。近年、「あじさい寺」として有名になってきた「二本松寺」という寺院です。智恵子の故郷、二本松とは無関係のようですが、変わった寺号ですね。
平成20年(2008)ごろから、ご住職がコツコツ紫陽花を増やし、目標1万株を達成、「あじさいの杜」として有料公開を始めて、テレビ等でも紹介されるようになりました。昨日も盛況。当方らはまだすいていた午前中に訪れましたが、帰る際には駐車場待ちの車で渋滞が発生していました。
1万株、たしかに見応えがありました。
さらにすごいと思ったのは、近年開発されたと思われる、いろいろな紫陽花が多いこと。「こんな紫陽花があるのか」的な。
本堂付近には、紫陽花を使ったオブジェ的なものも。
流行りの花手水も紫陽花でした。智恵子が見たら、さぞ喜んだだろうと思いました。
都心からは遠いのですが、ぜひお越し下さい。
【折々のことば・光太郎】
篠田定吉氏くる、水野君碑の事、
昭和28年(1953)3月7日の日記より 光太郎71歳
「水野君」は水野葉舟。明治中期、『明星』以来の親友でしたが、昭和22年(1947)に歿しています。その歌碑を、葉舟の移り住んだ千葉成田の三里塚に立てる計画が持ち上がり、その件でしょう。「篠田定吉」は三里塚にほど近い印旛郡宗像村(現・印西市)在住の人物で、戦前から光太郎と面識がありました。
のちに歌碑の建設が具体化した頃、光太郎に碑面揮毫の依頼がありましたが、折悪しく健康がすぐれず断念、代わりに窪田空穂が筆を執りました。