地方紙『福島民友』さん、一昨日の一面コラム。
神戸文化ホールさん、コラムにあるとおり、智恵子紙絵を原画とした巨大なモザイクタイルで彩られています。当方、二十数年前、これを見るために神戸に行って参りました。
洋画家の故・田中岑(たかし)氏の手になるものです。
智恵子の原画紙絵がこちら。
「なぜ紫陽花?」と思っていましたが、紫陽花は「神戸市民の花」という位置づけだったのですね。
文化ホールさん、昭和48年(1973)開館ということで、老朽化による移転計画が持ち上がっていましたが、ここにきてコロナ禍による財源不足で計画の見直しがなされているとのこと。どうなりますことやら、注意していたいと思います。
当方自宅兼事務所にも、紫陽花が四株、妍を競っています。もっとも、「世界に一つだけの花」ではありませんが、花々には「競う」という感覚はないのでしょうが(笑)。
もう1件、同じ『福島民友』さんの一面コラム、6月14日(火)の掲載分をご紹介します。生前の光太郎を撮影され、今月初めに亡くなった写真家・田沼武能氏について触れられていました。
田沼氏と福島、こういうつながりがあったというのは存じませんでした。改めましてご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小坂さんくる、七尺像の骨組にとりかかる、ひる小坂さんと近所でソバ、
「七尺像」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の本体です。これまで小型試作、手の試作、中型試作と作り続けてきましたが、いよいよ本体の制作にかかりました。
「小坂さん」は助手を務めた彫刻家・小坂圭二。「骨組」とともに撮影された写真が現存しています。通常の胸像程度の大きさでしたら、あるいは光太郎が健康不安を抱えていなかったら、光太郎一人でも何とかなったでしょうが、七尺ともなると、小坂の助けなくしては無理だったでしょう。
編集日記 梅雨入り
神戸市の文化ホールは、花瓶に生けた青いアジサイを描いた壁画がシンボルになっている。市民の文化力を創造、発信する拠点の象徴として、市民の花にちなんで選ばれた▼原画となったのは、神戸市から遠い二本松市出身の洋画家高村智恵子が制作した紙絵「アジサイと花瓶」。智恵子は心の病を患い、静養先の病床で紙絵を毎日のように作った。花や野菜など、目に触れたものを何でも題材にし、はさみで色紙を切り、作品に仕上げた▼きっかけは、夫の光太郎が贈った千代紙だった。折り鶴から始まり、次第に色紙を用いて紙細工や切り抜き絵を作った。千数百枚に及んだ紙絵を、光太郎は「智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明」と表した(「智恵子紙絵」ちくま文庫)▼智恵子の古里でアジサイの開花の便りが届くようになった。「あじさい寺」として市民らに親しまれている高林寺でも咲き始めた。今月下旬にも30種、約5千株が見頃を迎えるという▼県内がきのう梅雨入りした。しばらくはうっとうしい空模様が続きそうだ。智恵子らも目にとめた色鮮やかなアジサイに心を癒やされ、少しでも明るい気持ちで過ごせるならいい。
神戸文化ホールさん、コラムにあるとおり、智恵子紙絵を原画とした巨大なモザイクタイルで彩られています。当方、二十数年前、これを見るために神戸に行って参りました。
洋画家の故・田中岑(たかし)氏の手になるものです。
智恵子の原画紙絵がこちら。
「なぜ紫陽花?」と思っていましたが、紫陽花は「神戸市民の花」という位置づけだったのですね。
文化ホールさん、昭和48年(1973)開館ということで、老朽化による移転計画が持ち上がっていましたが、ここにきてコロナ禍による財源不足で計画の見直しがなされているとのこと。どうなりますことやら、注意していたいと思います。
当方自宅兼事務所にも、紫陽花が四株、妍を競っています。もっとも、「世界に一つだけの花」ではありませんが、花々には「競う」という感覚はないのでしょうが(笑)。
もう1件、同じ『福島民友』さんの一面コラム、6月14日(火)の掲載分をご紹介します。生前の光太郎を撮影され、今月初めに亡くなった写真家・田沼武能氏について触れられていました。
編集日記 田沼武能さん
坂本龍馬や徳川慶喜など、写真の黎明(れいめい)期に撮られたポートレートは一様にしかめ面をしている。昔のカメラはフィルムに十分な光を当てるのに時間がかかって、顔の表情が動くときれいに撮影できなかった▼近年の研究では、笑顔に似た表情をつくることで、脳内の快感物質が活性化され、楽しい気持ちが生み出されることが分かってきている。カメラマンから「笑って」と言われた時には、笑う理由がなくても、素直に口角を上げたほうがいい▼世界100カ国以上を訪れ、子どもたちの表情を撮り続けた写真家、田沼武能さんが亡くなった。こだわったのが笑顔。戦争や飢餓そのものではなく、そこで懸命に生きる子どもたちの表情にカメラを向け続けた▼震災の後に本県を訪れた際も被災地ではなく、仮設住宅の被災者を撮った。家と共にアルバムなども流されてしまった人たちに記念写真を持ってもらうため。2人きりでの写真は結婚式以来56年ぶりという老夫婦は身を寄せ合って、ぎこちないながらも笑顔を見せた▼笑顔は自分ばかりではなく、それを見た人の気持ちにも影響することも分かっている。田沼さんがあの日撮った作品は、きっと今も誰かを明るい気持ちにしている。
田沼氏と福島、こういうつながりがあったというのは存じませんでした。改めましてご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
小坂さんくる、七尺像の骨組にとりかかる、ひる小坂さんと近所でソバ、
昭和28年(1953)3月5日の日記より
光太郎71歳
光太郎71歳
「小坂さん」は助手を務めた彫刻家・小坂圭二。「骨組」とともに撮影された写真が現存しています。通常の胸像程度の大きさでしたら、あるいは光太郎が健康不安を抱えていなかったら、光太郎一人でも何とかなったでしょうが、七尺ともなると、小坂の助けなくしては無理だったでしょう。