久々にテレビ放映情報です。
まず、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手・花巻から。
再放送 6月12日(日) 18:30~18:55 6月14日(火)13:30~14:00
岩手県花巻市の宮沢賢治ゆかりのカフェへ。それは庭にある花壇!賢治が晩年に設計した花壇には色とりどりの美しい花。賢治がよく訪れたという木々の建築をリノベーション。
宮沢賢治の世界を感じながら、素朴な味わいの郷土料理も堪能できる、くつろぎのカフェ。ここでしか見られない貴重なものが、賢治の花壇。不思議な文様のレンガの花壇は、賢治が晩年に設計したもので、○○仕込み。花を愛で、賢治を想う和風建築のカフェは、室内もすごい。賢治の妹ゆかりのオルガンや、さまざまな木々で作られた床の間の設えや意匠も見どころがいっぱい。そして若い人の感覚を取り入れたリノベーションも必見です!
【出演】渡部豪太 花巻市のみなさん
この番組、昨年は智恵子の故郷、福島・二本松の古民家カフェを取り上げて下さり、つい先日も再放送がありましたが、今回は花巻に出没。渡部豪太さん扮する古民家カフェブロガー・真田ハルが全国の古民家カフェを廻るというコンセプトです。一応、ドラマ仕立てではありますが、カフェのオーナーさんや地元の皆さんがご本人役で出演されたり、なぜか古建築等の専門家の方などが毎回都合よくお店にいたり……(笑)。
4月から新シリーズが始まり、だいたい毎回拝見していますが、それぞれの古建築はもちろん、建物を残そうとする地元の人々の思いなどが素晴らしいと思いますし、渡部さん演じるハルさんの「ゆるさ」もいい感じです。
今回取り上げられるのは、「茶寮かだん」さん。花巻の中心街に位置しますが、たまたま昭和20年(1945)の花巻空襲の被害を免れました。光太郎も戦中戦後によく歩いた一角ですので、おそらく目にした建物でしょう。ただし、光太郎がいた頃は普通の民家でしたが。
このブログでご紹介し続けている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載されている「光太郎レシピ」の撮影にも使われましたし、当方も一度お邪魔しました。ただ、その際は真冬で、賢治設計の花壇は雪に埋もれていましたが。
さて、もう1件。「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は「ゆるい」感じですが、こちらはどうも真逆で朝っぱらから「強烈」そうです(笑)。
今日、十和田湖彫刻に反対のテカミ始めてくる、
「始めて」は「初めて」ですね。光太郎以外も含め、意外とこの時代の文章ではこの二つの混同が目立ちます。
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、既に報道等で裸婦像であることは明かされていて、そのため「そんなものはけしからん」ということだったのでしょうか。
或いは、考え過ぎかも知れませんが、次のようなことも考えられます。
「乙女の像」は元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年の記念として、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月と、道路整備等に腐心した元青森県知事・武田千代三郎および地元の村長・小笠原耕一の「十和田の三恩人」を顕彰するものでした。肝煎りは当時の青森県知事にして太宰治実兄の津島文治でしたが、津島がその構想を打ち出す前から、旧厚生省の外郭団体のドンと、地元のボス的な怪しげな人物がタッグを組んでそうした活動を進めていました。ドンは記念碑の碑文まで既に書いていたそうです。
そこへ持ってきて津島というトンビに油揚げをさらわれた格好になり、怒ったドン、あからさまな嫌がらせをしてきます。「乙女の像」当初予定だった子の口地区への設置は認められない、当時から繁華街だった休屋地区なら認めよう、というのです。青森県と光太郎を仲介した佐藤春夫はこれに激怒、昭和32年(1957)刊行の『小説高村光太郎像』には次のように書かれています。
勢力争ひの軋轢に得たりとばかり飛び込んだらしい半官半民の協会のボスが自分の権力を見せびらかす仕事だと思はれる節が歴々としてあつたので地方官庁がそれに対抗できないのも口惜しいし、高村氏には気の毒なと思つて怒は心頭に燃えた。
ところが光太郎自身は……
これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えないのに、当の制作者は、佐藤君ならさぞ怒るでせうねと人ごとらしくすまして、ロダンにもさういふ場合はあつたし、どこに置いても結局大して変わりもないのだからと、(略)事を好まぬこの人本来の和霊のせいで、当人の言ふとほり、終始行きとどいた配慮の下に制作者をいたはつた知事を、難局に立たせたくなかつたといふ心づかいであつたと見るべきであらうか。
結局、設置場所は休屋地区でも一番奥の、人気(ひとけ)のない浜辺となりました。休屋地区には当時、パチンコ屋などもあり、そんな所に建てられてはとんでもない、と、佐藤などは考えたようですが、それは杞憂に終わりました。
さて、話を戻しますが、光太郎の元に届いた反対の手紙。もしかすると、横槍を入れてきたドンなどの意を汲んだ手下からのものだった可能性も捨てきれないな、と思うわけです。考えすぎでしょうか。
まず、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手・花巻から。
ふるカフェ系 ハルさんの休日▽岩手・花巻〜宮沢賢治が愛した花壇をめでるカフェ
NHK Eテレ 2022年6月9日(木) 22:30~22:55再放送 6月12日(日) 18:30~18:55 6月14日(火)13:30~14:00
岩手県花巻市の宮沢賢治ゆかりのカフェへ。それは庭にある花壇!賢治が晩年に設計した花壇には色とりどりの美しい花。賢治がよく訪れたという木々の建築をリノベーション。
宮沢賢治の世界を感じながら、素朴な味わいの郷土料理も堪能できる、くつろぎのカフェ。ここでしか見られない貴重なものが、賢治の花壇。不思議な文様のレンガの花壇は、賢治が晩年に設計したもので、○○仕込み。花を愛で、賢治を想う和風建築のカフェは、室内もすごい。賢治の妹ゆかりのオルガンや、さまざまな木々で作られた床の間の設えや意匠も見どころがいっぱい。そして若い人の感覚を取り入れたリノベーションも必見です!
【出演】渡部豪太 花巻市のみなさん
この番組、昨年は智恵子の故郷、福島・二本松の古民家カフェを取り上げて下さり、つい先日も再放送がありましたが、今回は花巻に出没。渡部豪太さん扮する古民家カフェブロガー・真田ハルが全国の古民家カフェを廻るというコンセプトです。一応、ドラマ仕立てではありますが、カフェのオーナーさんや地元の皆さんがご本人役で出演されたり、なぜか古建築等の専門家の方などが毎回都合よくお店にいたり……(笑)。
4月から新シリーズが始まり、だいたい毎回拝見していますが、それぞれの古建築はもちろん、建物を残そうとする地元の人々の思いなどが素晴らしいと思いますし、渡部さん演じるハルさんの「ゆるさ」もいい感じです。
今回取り上げられるのは、「茶寮かだん」さん。花巻の中心街に位置しますが、たまたま昭和20年(1945)の花巻空襲の被害を免れました。光太郎も戦中戦後によく歩いた一角ですので、おそらく目にした建物でしょう。ただし、光太郎がいた頃は普通の民家でしたが。
このブログでご紹介し続けている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載されている「光太郎レシピ」の撮影にも使われましたし、当方も一度お邪魔しました。ただ、その際は真冬で、賢治設計の花壇は雪に埋もれていましたが。
さて、もう1件。「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は「ゆるい」感じですが、こちらはどうも真逆で朝っぱらから「強烈」そうです(笑)。
おんがく交差点【熱唱!渡辺えり】
BSテレ東 2022年6月11日(土) 8:00~8:30芝居が人生!ご飯は歌で食べた?
ゲストは渡辺えりさん!俳優・劇作家・演出家として有名だが、実は歌手としても活躍!
東京キューバンボーイズやアコーディオンのcobaと共演、ピアソラ生誕100周年公演も!
原点はコタツの上で歌う「荒城の月」!幼い頃は、近所で歌ってご馳走を食べて育った?
小学校に入ると、イジメに遭って『布団の中の王様』に…。救いになったのが…お芝居!
小学5年の時、自作の演劇「光る黄金の入れ歯」でブレイク!なのにズルいと言われた?
両親は役者の道に大反対!高校卒業後は家出同然で上京…でもお芝居で納得してくれた?
今回は『ひと味違う伴奏』で戯曲の歌を披露!大谷さんは「Shall we ダンス?」劇中曲!
そして、渡辺えりさんと『歌うヴァイオリン』がベット・ミドラーの名曲でコラボする!!
♪ゲストの1曲
「りぼんの歌」 作詞 渡辺えり 作曲 近藤達郎
♪ヴァイオリンの小径
「ゴールドルンバ(ドニー青木のテーマ)」映画「Shall we ダンス?」より 作曲 周防義和 編曲 小林 哲
渡辺えり×歌うヴァイオリン コラボレーション
ベット・ミドラーの名曲を渡辺えりさんが日本語に訳した特別バージョンで共演!!
♪コラボレーション
「ザ・ローズ」 作詞・作曲 アマンダ・マクブルーム 訳詞 渡辺えり 編曲 萩森英明/山田武彦
出演者
【MC】 春風亭小朝(落語家) 大谷康子(ヴァイオリニスト)
【ナレーション】 加藤円夏
先月17日に、光太郎と交流のあったお父さま・渡辺正治氏を亡くされたえりさんですが、収録はその前だったように思われます(違っていたらすみません)。
番組説明では山形のご両親のお話もされるやに紹介がありますので、どんなお話になるか、期待しております。
それぞれぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
番組説明では山形のご両親のお話もされるやに紹介がありますので、どんなお話になるか、期待しております。
それぞれぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
昭和28年(1953)1月20日の日記より 光太郎71歳
「始めて」は「初めて」ですね。光太郎以外も含め、意外とこの時代の文章ではこの二つの混同が目立ちます。
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、既に報道等で裸婦像であることは明かされていて、そのため「そんなものはけしからん」ということだったのでしょうか。
或いは、考え過ぎかも知れませんが、次のようなことも考えられます。
「乙女の像」は元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年の記念として、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月と、道路整備等に腐心した元青森県知事・武田千代三郎および地元の村長・小笠原耕一の「十和田の三恩人」を顕彰するものでした。肝煎りは当時の青森県知事にして太宰治実兄の津島文治でしたが、津島がその構想を打ち出す前から、旧厚生省の外郭団体のドンと、地元のボス的な怪しげな人物がタッグを組んでそうした活動を進めていました。ドンは記念碑の碑文まで既に書いていたそうです。
そこへ持ってきて津島というトンビに油揚げをさらわれた格好になり、怒ったドン、あからさまな嫌がらせをしてきます。「乙女の像」当初予定だった子の口地区への設置は認められない、当時から繁華街だった休屋地区なら認めよう、というのです。青森県と光太郎を仲介した佐藤春夫はこれに激怒、昭和32年(1957)刊行の『小説高村光太郎像』には次のように書かれています。
勢力争ひの軋轢に得たりとばかり飛び込んだらしい半官半民の協会のボスが自分の権力を見せびらかす仕事だと思はれる節が歴々としてあつたので地方官庁がそれに対抗できないのも口惜しいし、高村氏には気の毒なと思つて怒は心頭に燃えた。
ところが光太郎自身は……
これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えないのに、当の制作者は、佐藤君ならさぞ怒るでせうねと人ごとらしくすまして、ロダンにもさういふ場合はあつたし、どこに置いても結局大して変わりもないのだからと、(略)事を好まぬこの人本来の和霊のせいで、当人の言ふとほり、終始行きとどいた配慮の下に制作者をいたはつた知事を、難局に立たせたくなかつたといふ心づかいであつたと見るべきであらうか。
結局、設置場所は休屋地区でも一番奥の、人気(ひとけ)のない浜辺となりました。休屋地区には当時、パチンコ屋などもあり、そんな所に建てられてはとんでもない、と、佐藤などは考えたようですが、それは杞憂に終わりました。
さて、話を戻しますが、光太郎の元に届いた反対の手紙。もしかすると、横槍を入れてきたドンなどの意を汲んだ手下からのものだった可能性も捨てきれないな、と思うわけです。考えすぎでしょうか。