昨日、今月17日に亡くなった渡辺正治氏(劇作家・女優渡辺えりさん御父君にして、生前の光太郎をご存じでした)ご遺族から、香典のお返しが届きました。
同封されていたハガキ大二つ折りの「お礼の言葉」。通常、この手のものは葬儀屋さんに既成の雛形があり、その中から選ぶものですね。当方、昨年暮れに妻の母が亡くなった時にもそうしました。
そう思って開いたところ、驚きました。何と、えりさんによる長文のご挨拶が。ご本名の「えり子」クレジットです。光太郎にも触れて下さっています。
こういうことも可能なのですね。
もう一件、『山形新聞』さんに載ったえりさんの文章。「渡辺えりのちょっとブレーク」という月イチの連載、5月分で、一昨日の掲載です。
改めまして、正治氏のご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
揮毫書初、奥平さんの幅の箱に“うつくしきもの”宮崎稔氏の箱に“高村智恵子遺作紙絵”北川太一氏の「智恵子抄」特製本の扉に「われらつねにみちよ」“あれが阿多多羅山”を書く、
毎年1月2日には書き初めというのがこれまでの通例で、帰京してからもそのルーティーンは崩しませんでした。
当会顧問であらせられた故・北川太一先生の名が、日記では初めて登場しました(書簡では前年から)。前年、光太郎が帰京したと聞きつけて体当たり的に訪問された北川先生、面識もなかったため何度か追い返された後、貸しアトリエの大家だった中西夫人のとりなしで光太郎と会うことが出来、以後、親炙することとなりました。
渡辺えりさん、そのエピソードを舞台「月にぬれた手」で使われています。ただ、「北山」と名前を変えてですが。
この日、北川先生が書いてもらった揮毫がこちら。
ここから版を採って、複製の色紙や幅が作られ(それを「真筆」として展示されてしまうことがあり、閉口していますが)、さらに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城に建てられた詩碑のプレートも作られました。
同封されていたハガキ大二つ折りの「お礼の言葉」。通常、この手のものは葬儀屋さんに既成の雛形があり、その中から選ぶものですね。当方、昨年暮れに妻の母が亡くなった時にもそうしました。
そう思って開いたところ、驚きました。何と、えりさんによる長文のご挨拶が。ご本名の「えり子」クレジットです。光太郎にも触れて下さっています。
こういうことも可能なのですね。
もう一件、『山形新聞』さんに載ったえりさんの文章。「渡辺えりのちょっとブレーク」という月イチの連載、5月分で、一昨日の掲載です。
(204)父ちゃん、ありがとう
17日の夜、父親が亡くなった。ここ数年、介護施設のお世話になっていた父。先月、高熱が出て入院したが、良くなったので退院することになり安心していた矢先だった。
毎月お見舞いに行っていたが、コロナ禍で直接触れ合うことができず、ガラス窓越しに10分だけの面会が続いていた。そんな中で逝ってしまった。新幹線で病院に着いたのが午後10時15分。すでに意識はなく、「父ちゃん、父ちゃん」と叫んで体をさすっても意識は戻らず、同36分に帰らぬ人となった。コロナ禍で面会は私と弟の2人きり。本当にコロナは残酷である。
95歳でも父の肩は厚く、昔、湯野浜海水浴場で肩車をしてもらったことを思い出した。看護師さんに「何度も肩車してもらったんですよ」と話す。父がどれほどたくましかったか、ユーモアがあり優しかったか、誰かに伝えたかった。
看護師さんに丁寧に体を拭いてもらったためか、父の頬はほんのり赤く色づいて少年のようにふっくらしてきた。見開いた目はどうやっても閉じない。お医者さんから「私が駆けつけるまで待っていた」と聞き、何とか目を開いていようと頑張ってくれたのだと思った。時間がたつにつれ、安心したように目を閉じて口角が上がり、仏像のような表情になってくる。神様か仏様かと、思わず拝んでしまうほどのありがたい顔に変化していった。
病院の待合室には弟の奥さん、いとこたちが駆けつけていた。葬儀屋さんが父の遺体を運びに来てくれたが、黒いシートにくるまれている。病院の裏口から運び出そうとした瞬間、看護師さんが機転を利かせて父の顔を見せてくれた。親族たちが脱兎(だっと)のごとく駆けつけ、父の名を呼ぶ。
お通夜の部屋が間に合わず、霊安室に一晩安置された。突然のことなのでお墓もなく、お寺も決まっていない。私も仕事の格好のまま、気が動転して頭がうまく回らない。
翌日、葬儀屋さんの進行でお寺や葬儀について話し合い、19日にお通夜、20日に葬儀と日程が決まった。
コロナ禍なので葬儀は親族だけで済まし、一般の方はお焼香だけ。何度説明を受けても理解できない。とにかく東京から喪服とアルバム、父のために書いた戯曲などを送ってもらい、何人かに父の死を伝えた。誰に伝えていいのかもよく分からない。コロナ禍で友人を呼べず、相談することもできない。しかも15日に足首を剥離骨折してしまったために自分で動くことができない。
こんな時にけがをしている自分が情けなかったが、弟の立派さとその家族の親切さを改めて感じた。取り乱して感情的になっている姉と、周りの人たちに気遣い謙虚に仕切る弟。子供の頃、泣き虫でおねしょをしていた弟の成長に驚き、見直した。親族たちも昔から父を尊敬し慕っていたのだな、と改めて思う。
お通夜に親族で集まっていると、東京からもたいまさこと光永吉江、元夫、元劇団員が来てくれた。コロナ禍、山形の友人には遠慮してもらっていたが、それを知らない東京の友人が駆けつけてくれたのだ。
劇団員の元夫がみんなに知らせてくれたらしい。山形では葬儀の前に火葬するしきたりを知り、その前に父の顔を見に来てくれたのだった。劇団3〇〇の芝居が好きで俳優たちを常に応援し、山形公演の時はいつも実家で歓待してくれた両親。みんなが帰った後は、2人そろって寝込んでしまうほどもてなしてくれた。
もたいと光永とは、3日徹夜で話しても話がつきないほど気が合う。2人の愉快な会話を戯曲に書いたこともあるが、お通夜の席でも大笑いするシーンがあった。私がボロボロのジーンズに赤い靴下をはいていたら、光永が「早く着替えなさい」と言う。「山形のお通夜は普段着なんだ」と答えたら、東京チームは全員驚きの声を上げる。東京からそのまま来た私は喪服がないのは当然だが、親族も全員が普段着。これは山形の風習であった。突然亡くなったのに、以前から準備していたように感じさせない配慮ではないか? 葬儀の当日には全員喪服を着るが、お通夜は昔から親族もわざわざ普段着を装う。
ここまで書いてきたら、決められた文字数をとうに過ぎてしまった。おくりびとの話や葬儀屋さんの素晴らしさ、ひつぎに入れた愛用品、葬儀で歌った歌、山形新聞の父の記事、火葬場での話、父の教え子、父が戦時中に教員になろうと決意した話、私が演劇をすることに反対だった父が突然許した理由など、これらは次回に書きたいと思う。
お忙しい中、お焼香に来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。
いつも明るく、人をほめ、会った人がみんな豊かな気持ちになるような温かい父でした。
(俳優・劇作家、山形市出身)
改めまして、正治氏のご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
揮毫書初、奥平さんの幅の箱に“うつくしきもの”宮崎稔氏の箱に“高村智恵子遺作紙絵”北川太一氏の「智恵子抄」特製本の扉に「われらつねにみちよ」“あれが阿多多羅山”を書く、
昭和28年(1953)1月2日の日記より 光太郎71歳
当会顧問であらせられた故・北川太一先生の名が、日記では初めて登場しました(書簡では前年から)。前年、光太郎が帰京したと聞きつけて体当たり的に訪問された北川先生、面識もなかったため何度か追い返された後、貸しアトリエの大家だった中西夫人のとりなしで光太郎と会うことが出来、以後、親炙することとなりました。
渡辺えりさん、そのエピソードを舞台「月にぬれた手」で使われています。ただ、「北山」と名前を変えてですが。
この日、北川先生が書いてもらった揮毫がこちら。
ここから版を採って、複製の色紙や幅が作られ(それを「真筆」として展示されてしまうことがあり、閉口していますが)、さらに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城に建てられた詩碑のプレートも作られました。