明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。