このブログでたびたびご紹介している、宮城県女川町の「いのちの石碑」。平成23年(2011)に起きた東日本大震災直後に中学校に入学した若者たちが、津波の際の避難の目安にと、町内の浜の高台に建て続けてきたものです。
中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991建立)に倣って、募金で賄われました。平成25年(2015)の1基目に始まり、年に数基ずつ建てられ、昨年には当初予定の21基めが竣工しました。
先週、5月19日(木)のkhb東日本放送さんのローカルニュースから。
あまり考えたくないのですが、あの大津波を上回る想定が新たに出され、防災計画の見直しも必要とのこと。「満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定」とのことですが、決してあり得ない話ではないわけで……。
もう1件、やはり「いのちの石碑」がらみで、地元紙『河北新報』さんから。やはり5月19日(木)の報道でした。
震災で25人が亡くなったという出島にも、鈴木さんらのご努力で「いのちの石碑」が設置されています。上記動画では4:55頃から。
こちらにも一度行ってみようと思いながら果たせないでいます。今年は女川光太郎祭も復活することを期待し、できれば足をのばしてみようかと思っております。皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
晴、 手の彫刻の支度、 午后藤島さんくる、 谷口さんの彫刻写真撮影は来月にのびる、
「手の彫刻」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の習作です。大正7年(1918)作の「手」と同じく、観世音菩薩の印相・施無畏印の形をとっています。元々「乙女の像」が「智恵子観音」という当初構想からの発展系であることの名残です。
「藤島さん」は、この頃、光太郎の身の回りの世話を何くれとなく見てくれた詩人の藤島宇内、「谷口さん」は建築家の谷口吉郎、「乙女の像」一帯の公園の設計を任されていました。
中学校での授業の中でその設置を考え、費用は同じ女川町の光太郎文学碑(平成3年=1991建立)に倣って、募金で賄われました。平成25年(2015)の1基目に始まり、年に数基ずつ建てられ、昨年には当初予定の21基めが竣工しました。
先週、5月19日(木)のkhb東日本放送さんのローカルニュースから。
宮城県の新たな津波浸水想定 沿岸部の住民は避難マニュアルの見直しへ
宮城県が先週公表した津波の浸水想定についてです。公表から1週間、沿岸部の住民は避難マニュアルの見直しに動き出しています。災害への備えに終わりはない、次の災害に備える住民の思いを取材しました。
県が、5月10日に公表した新たな津波の浸水想定。満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定していて、浸水面積は県全体で391平方キロメートルと東日本大震災の1.2倍に上ります。
宮城県河川課佐藤宏課長「何としても人命を守るのが今回の主眼。何があってもとにかく逃げるという行動を取ってください」
■津波で被災し移転するも移転先が浸水想定域に
東松島市のあおい地区で、自治会長を務める小野竹一さん(74)です。東日本大震災の津波で、海の近くの大曲浜にあった自宅が流されました。
安全な場所を求めて、2016年に海から3.5キロほど離れたあおい地区に移転した小野さん。しかし、新たな想定ではこの地区にも津波が及びます。
あおい地区会小野竹一会長「ここには津波来ない。大丈夫という先入観がすごくあったと思う。自分の命を守るために、どんなふうにするのかが大事ですから、それに適応した暮らし方、避難の仕方、高齢者、小さい子どもを守るためにどんなことをしていなかればいけないか」
東松島市には、最大10.6メートルの津波が押し寄せる想定です。今回の想定では、東日本大震災の1.3倍が浸水することに。
あおい地区は市内最大の集団移転団地で、災害公営住宅や戸建ての住宅に580世帯、約1300人が暮らしています。
東日本大震災では津波は到達しませんでしたが、今回の想定では1メートルから3メートルの津波が押し寄せます。
■新たな避難マニュアルを作成へ
あおい地区の自主防災組織では、これまで年に2回のペースで防災訓練を行ってきました。今後、内陸や高台への避難場所を盛り込んだ避難マニュアルを作成することを決めました。
あおい地区会小野竹一会長「あおい地区として、一番良い避難マニュアルをこれから作っていく必要がある。できれば6年の総合防災訓練までには、住民に示すことができれば、一番良いのかなと思う」
東日本大震災を上回る災害にどう備えるのか。岩沼市は県の担当者を招き、19日に住民説明会を開催。この他、松島町と利府町以外の12の市と町でも住民説明会を検討しています。
宮城県河川課佐藤宏課長「もしかすると、あの時よりも深くなるかもしれない。そういったことがあり得ることを常に認識しながら、津波、地震が来た時には、避難という行動を取っていただきたいということを説明していく」
■避難して命を守ることの大切さを訴える
今回の想定を受け、思いを新たにした人がいます。津波で母親と祖父母を失った、女川町の鈴木智博さん(23)です。
女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「やっぱり、ここまで来るのかと驚きました」
女川町では、最大20.7メートルの津波が想定され、浸水面積は東日本大震災の2.1倍に拡大します。
女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「どれだけ災害に備えていても終わりはないと考えていますし、少しでも命を守れるような行動を取ってほしいと自分たちの経験からも思う」
竹浦地区に造った石碑。そこに刻んだ言葉。
「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
新たな想定では、津波はこの石碑を超えることが分かりました。東日本大震災を上回る災害に備える。次こそ、命を守る避難を。
女川いのちの石碑プロジェクト鈴木智博さん「今回の浸水想定が出たことで、新たに災害に対する関心が上がったと思うので、この機会に改めて災害に対する準備や避難の行動を考え直してほしいと思う」
鈴木さん、中高生の頃、昭和6年(1931)に光太郎が『時事新報』の依頼で三陸沿岸一帯の紀行文を書くため女川にも立ち寄ったことを記念して行われている(一昨年・昨年はコロナ禍のため中止)女川光太郎祭にご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。あまり考えたくないのですが、あの大津波を上回る想定が新たに出され、防災計画の見直しも必要とのこと。「満潮時に地盤沈下が起き、防潮堤や水門が壊れるなど最悪のケースを想定」とのことですが、決してあり得ない話ではないわけで……。
もう1件、やはり「いのちの石碑」がらみで、地元紙『河北新報』さんから。やはり5月19日(木)の報道でした。
女川・出島の自然や歴史堪能 有志がトレッキングコース整備
宮城県女川町の離島・出島(いずしま)で、有志のグループがトレッキングコースの整備を進めている。豊かな自然や歴史に触れられる約10キロの周回路で、今年4月にルートが決まった。島と町本土を結ぶ出島架橋の開通を2024年度に控え、関係者は観光の目玉にしようと、韓国版トレッキング「宮城オルレ」の認定を目指す。
コースを作ったのは島内外の有志でつくる「女川未来会議出島プロジェクト」。出島架橋後を見据えて新たな観光資源を発掘するため、トレッキングに着目した。プロジェクト事務局の高野信さん(63)=郡山市=が20年3月に島民対象の説明会を開き、理解を得て整備に取り組んでいる。
人口減少で使われなくなり、草木が生い茂るかつての生活道路を基にコースを検討。島の西側中央にあり、巨石が並ぶ縄文時代の配石遺構群「出島遺跡」を発着地に選んだ。ボランティアの協力を得て樹木を伐採したり急斜面にロープを設置したりし、水平線を一望できる入り江や神社、漁港を巡るルートを決めた。
女川中の卒業生が東日本大震災の津波の記憶を後世に伝えるため、島内2カ所に建立した「女川いのちの石碑」もコースに取り入れ、震災の教訓を伝える。
コースは決まったが、課題は残る。案内板がなく、ルートを示すテープの設置も不十分。島内に商店はなく、飲料の自動販売機が港に1台あるだけで、公衆トイレも1カ所しかない。
高野さんはトイレ増設や駐車場設置を町に働きかける考え。「島民や町の協力を得ながら架橋開通までに島ぐるみで観光客を迎える環境を整えたい」と話す。
[出島]女川町本土から東に約300メートル離れ、面積約2・6平方キロメートル。女川港から離島航路を使い約20分で着く。主要産業は漁業。東日本大震災の津波で島民25人が犠牲になり、島内に1校ずつあった小中学校は2013年3月に閉校。人口は震災前の約500から94(今年3月末現在)に激減した。全長約360メートルの架橋は17年に着工し、24年度の開通を予定する。
出島(いずしま)は女川湾の入り口に浮かぶ島で、女川光太郎祭を主催なさっている女川光太郎の会・須田勘太郎会長がお住まいです。人口が震災前の5分の1まで減少してしまったというのがショッキングでした。しかし、逆に本土から移住なさった方が民宿を開くなどの動きもありますし、画像にもある縄文遺跡なども貴重なものですね。震災で25人が亡くなったという出島にも、鈴木さんらのご努力で「いのちの石碑」が設置されています。上記動画では4:55頃から。
こちらにも一度行ってみようと思いながら果たせないでいます。今年は女川光太郎祭も復活することを期待し、できれば足をのばしてみようかと思っております。皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・光太郎】
晴、 手の彫刻の支度、 午后藤島さんくる、 谷口さんの彫刻写真撮影は来月にのびる、
昭和27年(1952)12月20日の日記より
光太郎70歳
光太郎70歳
「手の彫刻」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための手の習作です。大正7年(1918)作の「手」と同じく、観世音菩薩の印相・施無畏印の形をとっています。元々「乙女の像」が「智恵子観音」という当初構想からの発展系であることの名残です。
「藤島さん」は、この頃、光太郎の身の回りの世話を何くれとなく見てくれた詩人の藤島宇内、「谷口さん」は建築家の谷口吉郎、「乙女の像」一帯の公園の設計を任されていました。