今年3月リリースのCDです。

シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集

2022年3月23日 Octavia Records Inc 定価3,200円+税

宮本益光(バリトン) 加藤昌則(ピアノ) 崎谷直人(ヴァイオリン)

このようなタイトルのアルバムを発表する日が来るなんて、舞台に立ち始めたころは考えもしませんでした。クラシックというジャンルで、作詞・作曲を演奏家本人が担当すること自体、かなり珍しいことだと思います。二人が出会って、もう30年近くなります。がむしゃらに突っ走った20代、少しずつ認められてきた30代、自分のことが少しだけわかってきた40代、私たちはそれぞれの領域で活動を積み重ねつつ、知らぬ間に二人の世界を拡げてきたのだと思います。これは二人の日記帳のようなもの。二人にしか描けない魂の記録です。
宮本益光

作曲家・加藤昌則と歌っている宮本益光は東京藝大の同期だ。加えて、ここで作曲家はピアニストでもあり、歌手は詩人でもある。(中略)
加藤昌則という仲介者を経て自作を声に乗せることができている宮本益光は、まことに稀有な演奏家だ。「もしも歌がなかったら ゲーテは詩なんて書かなかっただろう」という自身の言葉(「もしも歌がなかったら」)の「ゲーテ」は、「私」と置換してもいいのである。微妙な音色の変化を含ませつつ、すべての曲に真正面から取り組む「詩人の歌唱」には、ただ感嘆。見事というほか、ない。
池辺 晋一郎(ライナーノーツより)
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曲目
 魔女の住む街 (詩・宮本益光)
 祈りの街 (詩・宮本益光)
 城壁となって (詩・宮本益光)
 落葉 (詩・千家元麿)
 俺らの町の数え歌 (詩・宮本益光)
 桜の背丈を追い越して (詩・宮本益光)
 詩がある (詩・宮本益光)
 そこにある歌 (詩・宮本益光)
 彦星哀歌 (詩・宮本益光)
 ここで歌うだけ (詩・宮本益光)
 レモン哀歌 (詩・高村光太郎)
 さくら (詩・たかはしけいすけ)
 「ME」より 恋歌 (詩・たかはしけいすけ)
 「花と鳥のエスキス」より ぼくの空 あたらしい日がくるたびに
  (詩・たかはしけいすけ)
 「名もなき祈り」より 空に 今、歌をうたうのは (詩・宮本益光)
 もしも歌がなかったら (詩・宮本益光)
 平和へのソネット (詩・宮本益光)
 またね、またね (詩・宮本益光)
002
アルバムタイトルが「シンガーソングライター」ですが、「自分で作詞作曲し、歌う」という通常の意味のそれではありません。まず作詞は全20曲中、大半が歌唱担当の宮本益光氏。氏はバリトン歌手でありながら、詩集も出版なさっているそうです。そして全20曲、作曲はピアノを担当なさっている加藤昌則氏。というわけで、いわばお二人の合作。いうなれば「シンガーソングライターズ」とでも言うべきかと存じます。

宮本氏作詞でないものは、氏の詩の師・たかはしけいすけ氏の手になるものが5曲、光太郎とも交流のあった千家元麿のテキストで1曲、そして光太郎の「レモン哀歌」。

この「レモン哀歌」がプログラムに入っていたコンサート等は、当方が把握している限り、令和元年(2019)に加耒徹氏の歌唱で「歌道Ⅱ」と題した公演が福岡と東京で行われた他、同年の「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」でも加耒氏が歌われました。また、今回のCDで歌われている宮本氏で、「午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル」。こちらは今年の2月、横浜での公演でした。それから情報を把握しておらずご紹介出来ませんでしたが、先月末に愛媛県八幡浜市で開催された「宮本益光バリトンリサイタル SINGER SONGWRITER 加藤昌則歌曲集」でも演奏されています。CDの発売記念的なコンセプトでしょう。宮本氏は八幡浜ご出身だそうです。
005
「レモン哀歌」、これまでも様々な作曲家の方々などが曲を付けて下さっていますが、解釈がそれぞれですね。今回のように単発の場合と、組曲や歌曲集の中の一篇という場合では扱い方が異なってきますし、独唱の場合と合唱の場合とでも違います。バックボーンがシャンソンというモンデンモモさん、歌唱なしのインストゥルメンタルでピアノの荒野愛子さんなどはさらに毛色が変わっていますし。ちなみに演歌の坂本冬美さんにも「レモン哀歌」という曲があります。ただし、こちらは光太郎詩ではなく作詞家・たかたかし氏の詞ですが。
003
「レモン哀歌」だけでなく、他の詩まで範囲を広げれば、「道程」には、かの坂本龍一氏が曲を付けて下さいましたし、その他箏曲などの純邦楽、'70年代にはフォークソング調、さらには詩吟的なものや浪曲風まであります。それらを聴き較べてみるのも一興です。

さて、CD「シンガーソングライター 加藤昌則歌曲集」、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

うどんをとる、余は全部嘔吐す、 夕食とらず、


昭和27年11月24日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に当たり、以前の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中に悩まされていた結核性の肋間神経痛はかなりおさまったものの、それでも万全の体調とは言えない日々でした。光太郎の命ものこりあと3年半ほどです。