昨日はNHKさんのアーカイブ的な活動についてご紹介しましたので、ついでというと何ですが、NHKさんがらみで。
手前味噌で申し訳ありませんが、先月中旬、NHK青森さんで放映されているロカールワイド「あっぷるワイド」に、当方がビデオ出演させていただきました。
青森と言えば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。そこで、ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるというコンセプトでした。
放映後にDVDに焼いたものを送って下さいまして、拝見。、10分弱の尺で、そういう話を事前に聞いていた段階では、少し短いかな、と思っていたのですが、なかなかどうして濃密な内容でした。
放送をふまえ、NHK青森さんのサイトに、「"わが詩をよみて人死に就けり" 高村光太郎 ~「乙女の像」に込めた願い~」というページが設けられました。そちらをご覧いただければそれで終わりなのですが(笑)、一応、概略を。
まずは十和田湖。当方もお世話になっています、現地のボランティアガイドの方がご出演。十和田湖を訪れた皆さんに、こういう説明をなさっているそうで。
そして千葉の当方自宅兼事務所。八戸支局からディレクター氏とカメラさん、音声さんがわざわざ取材にいらっしゃいました。
特に戦時中の光太郎について語って欲しいというので、手持ちの資料等お見せしながらべしゃくりました。
光太郎の翼賛詩「十二月八日」詩稿。複製ですが。
先日まで放映されていた朝ドラ「カムカムエブリバディ」でも使われた、光太郎作詞の国民歌謡「歩くうた」関係。
歌をバックに、こんな映像も。この手のアーカイブ映像はNHKさんの得意とするところですね。
そして戦後、ということで、光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。
ここで光太郎は自らの戦争責任と向き合いました。
そして、昭和27年(1952)、青森県から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼。それが「乙女の像」です。
サンフランシスコ講和条約により、GHQの占領は解除、日本の独立国家としての復権がなった時期でもあり、芸術家が再び自由に制作をできるようになったことも、像の制作を決意した一因でしょう。
「小山さんは「肺結核を患い、もう長くは生きられないことを自覚していた高村は、みずからの“道程”の集大成として、高村が生涯をささげた“美”と最愛の妻 智恵子への“愛”、そして戦争の経験から来る“平和”の象徴となる像を、『智恵子観音像』という形で制作した」と言います。」だそうで(笑)。
そして厳しい自己省察、反省を経ての、光太郎の到達点。
引用されているのは詩「新年」(昭和23年=1948)の一節です。
こうした光太郎の願いが実ることなく、ロシアによるウクライナ侵攻……。また、その報道の陰でかすんでしまっていますが、シリアやミャンマーなどでも戦火が絶えたわけではありません。人類一人一人が、「平和」についてもっともっと考えなければならないと存じます。
ところで、そうした意味も含め、NHK青森さんのこのレポート、BS放送などででも、ぜひ全国ネットの電波に乗せていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
午前モデル、 小坂さんくる、此のモデルを今年一ぱい契約する。
「モデル」は、「乙女の像」制作に際し雇ったプール・ヴー美術研究所所属のモデル、藤井照子。「小坂さん」は、光太郎の助手として粘土こねなどを行ってくれた小坂圭二です。
結局、契約は延長され、翌年も藤井がモデルを務めています。ただ、完成した像の顔は智恵子の顔。光太郎自身は公的には「智恵子の顔」とは言いませんでしたが。
おまけ
手前味噌ついでに……。このブログ、平成24年(2012)5月3日に開設しまして、今日で丸10年です。10年間、1日も休まず投稿し続けました。まぁ。時折、前日に書いておいて翌日に予約投稿、などというインチキもありましたが(笑)。
10年間、投稿出来ないほどに体調を崩すこともなく、また、世の中が投稿出来ないほどに乱れることもなく(投稿を始めた前年が東日本大震災でしたが)、「平和」であることのありがたさを噛みしめております。
今後、何年間、投稿が続けられるのか、というところですが、引き続きよろしくお願い申し上げます。
手前味噌で申し訳ありませんが、先月中旬、NHK青森さんで放映されているロカールワイド「あっぷるワイド」に、当方がビデオ出演させていただきました。
青森と言えば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。そこで、ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるというコンセプトでした。
放映後にDVDに焼いたものを送って下さいまして、拝見。、10分弱の尺で、そういう話を事前に聞いていた段階では、少し短いかな、と思っていたのですが、なかなかどうして濃密な内容でした。
放送をふまえ、NHK青森さんのサイトに、「"わが詩をよみて人死に就けり" 高村光太郎 ~「乙女の像」に込めた願い~」というページが設けられました。そちらをご覧いただければそれで終わりなのですが(笑)、一応、概略を。
まずは十和田湖。当方もお世話になっています、現地のボランティアガイドの方がご出演。十和田湖を訪れた皆さんに、こういう説明をなさっているそうで。
そして千葉の当方自宅兼事務所。八戸支局からディレクター氏とカメラさん、音声さんがわざわざ取材にいらっしゃいました。
特に戦時中の光太郎について語って欲しいというので、手持ちの資料等お見せしながらべしゃくりました。
光太郎の翼賛詩「十二月八日」詩稿。複製ですが。
先日まで放映されていた朝ドラ「カムカムエブリバディ」でも使われた、光太郎作詞の国民歌謡「歩くうた」関係。
歌をバックに、こんな映像も。この手のアーカイブ映像はNHKさんの得意とするところですね。
そして戦後、ということで、光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。
ここで光太郎は自らの戦争責任と向き合いました。
そして、昭和27年(1952)、青森県から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメントの制作依頼。それが「乙女の像」です。
サンフランシスコ講和条約により、GHQの占領は解除、日本の独立国家としての復権がなった時期でもあり、芸術家が再び自由に制作をできるようになったことも、像の制作を決意した一因でしょう。
「小山さんは「肺結核を患い、もう長くは生きられないことを自覚していた高村は、みずからの“道程”の集大成として、高村が生涯をささげた“美”と最愛の妻 智恵子への“愛”、そして戦争の経験から来る“平和”の象徴となる像を、『智恵子観音像』という形で制作した」と言います。」だそうで(笑)。
そして厳しい自己省察、反省を経ての、光太郎の到達点。
引用されているのは詩「新年」(昭和23年=1948)の一節です。
こうした光太郎の願いが実ることなく、ロシアによるウクライナ侵攻……。また、その報道の陰でかすんでしまっていますが、シリアやミャンマーなどでも戦火が絶えたわけではありません。人類一人一人が、「平和」についてもっともっと考えなければならないと存じます。
ところで、そうした意味も含め、NHK青森さんのこのレポート、BS放送などででも、ぜひ全国ネットの電波に乗せていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
午前モデル、 小坂さんくる、此のモデルを今年一ぱい契約する。
昭和27年(1952)11月12日の日記より 光太郎70歳
「モデル」は、「乙女の像」制作に際し雇ったプール・ヴー美術研究所所属のモデル、藤井照子。「小坂さん」は、光太郎の助手として粘土こねなどを行ってくれた小坂圭二です。
結局、契約は延長され、翌年も藤井がモデルを務めています。ただ、完成した像の顔は智恵子の顔。光太郎自身は公的には「智恵子の顔」とは言いませんでしたが。
おまけ
手前味噌ついでに……。このブログ、平成24年(2012)5月3日に開設しまして、今日で丸10年です。10年間、1日も休まず投稿し続けました。まぁ。時折、前日に書いておいて翌日に予約投稿、などというインチキもありましたが(笑)。
10年間、投稿出来ないほどに体調を崩すこともなく、また、世の中が投稿出来ないほどに乱れることもなく(投稿を始めた前年が東日本大震災でしたが)、「平和」であることのありがたさを噛みしめております。
今後、何年間、投稿が続けられるのか、というところですが、引き続きよろしくお願い申し上げます。