お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第42号が届きました。多謝。いわずもながなですが、同館は光太郎の親友だった碌山荻原守衛(明治12年=1879~明治43年=1910)の個人美術館です。
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年刊で、毎号数十ページの濃密な内容となっています。
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今号の巻頭には、新たに寄贈されたという「宮内氏像」(明治42年=1909)。作品自体は以前から知られていたものですが、これはブロンズに鋳造されたのが守衛の生前というのが貴重だというわけです。意外といえば意外でしたが、同館に収蔵されているものを含め、現存するほとんどの碌山ブロンズ作品は、守衛没後の鋳造だそうです。生前に鋳造されたと確認出来ているものは、「北条虎吉像」(明治42年=1909)に一つ、そして今回の「宮内氏像」と、2点だけだとのことでした。

結局、数え32歳で亡くなり、生前には「巨匠」「大家」という地位を得られなかったことが大きいのでしょう。ただ、守衛は亡くなる前、明治41年(1908)と翌年の文展に「北条虎吉像」以外に「女の胴」、「坑夫」、「文覚」、「労働者」を出品しており、それらの出品形態はどうだったのかな、と、疑問に感じました。粘土原型のままだったのか、石膏に取ったものだったのか、鋳造されていたのか、ということです。来週末には現地に赴きますので、訊いてこようと思っております。

光太郎のブロンズ彫刻についても、光太郎生前の鋳造と確認出来ているものは、そう多くありません。現在、全国の美術館さん等で展示されているものの多くは、没後の鋳造です。代表作の「手」にしてもそうで、生前鋳造と確認出来ているものは、竹橋の国立近代美術館さん蔵のもの(有島武郎旧蔵品)、谷中の朝倉彫塑館さん蔵のもの、そして髙村家に一つと、三点のみです。

もっとも、光太郎ブロンズは、最初から多数の人々に頒布される目的で、まとまった数が鋳造されたものも存在します。生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で関係者に配られた「大町桂月メダル」(小品ではありますが、完成品としては、これが光太郎最後の彫刻です。「乙女の像」を「絶作」、「最後の作品」とする記述が目立ちますが、誤りです)、さらに遡って、昭和12年(1937)作の「日本水先人協会記念牌」(こちらは当方も一つ入手しました)なども。
桂月メダル MVC-610F
それにしても小品ですし、ものすごく大量に鋳造されたわけでもありませんが。

閑話休題。『碌山美術館報』では、同館学芸員の武井敏氏による「《宮内氏像》について」、さらに同じく武井氏の「荻原守衛のロダン訪問」など、興味深い考察が満載でした。光太郎についても随所で触れて下さっています。リンクを貼っておきましたので、お読み下さい。

その「宮内氏像」の特別展示が、同館で4月22日(金)から始まります。4月22日といえば守衛の忌日・碌山忌。コロナ禍前は懇親会等も行われていましたが、そちらは今年もありません。ただ、守衛墓参と、「宮内氏像」特別展示の関連行事を兼ねた講演会「宮内良助の人生と《宮内氏像》の旅」が行われます。講師は「宮内氏像」モデルの宮内良助令曾孫・郡司美枝氏。

長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」も拝見したいので、併せて行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏小坂氏来訪、 回転台しん棒中、小型届く、払、


昭和27年(1952)10月15日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。おそらく、平成30年(2018)、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きな回転台のものと思われます。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。