昨日は福島県三春町に行っておりました。光太郎智恵子ゆかりの地ではないのですが、この地に咲く「三春滝桜」が満開とのことで、妻が見たいと云っていたものですから……。

一昨日、このブログで智恵子の故郷・二本松の桜の名所についてご紹介しました。三春町は郡山の東隣で、二本松ともそう遠くないのですが、他の雑事もあり時間的に余裕が無く、二本松へは行きませんでした。いずれ二本松の桜の名所も廻りたいと思っております。

こいつは自宅兼事務所でお留守番(笑)。
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ひる頃、現地に到着しました。平日、さらに昨日は小雨模様でしたが、それなりに多くの方々が観桜に訪れていました。これが週末とかで天気も良ければ、芋の子を洗うような状態だったかもしれません。
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青空がバックだと、なお映えたのでしょうが……。それでも推定樹齢1,000年超という生命力の凄さ、この木を守り続ける地元の皆さんのご努力などなど、感じ入りました。

それから、この木だけがずどんとあるのではなく、周辺一帯にもたくさんの桜。その中でひときわの巨木が滝桜、というわけです。
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当方の大好きな古民家も多く、いい感じでした。
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さらに云うなら、常磐自動車道で関東平野が尽きて山間部に入る茨城県の日立市あたりから、いわきジャンクションを経ての磐越道と、沿線はほぼ山桜が咲き続けている状態でした。

助手席の妻が撮った画像。
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山全体が若葉の新緑と桜のピンクによって、パッチワークのように(陳腐な常套句ですみません(笑))なっている箇所もありました。このルートはしょっちゅう通っていたのですが、4月のこの時期に走ったのは、もしかすると初めてだったようです。これまで、この沿線にこんなに桜の木が生えていたとは気づいていませんでした。

さて、桜と云えば、光太郎にずばり「さくら」という詩があります。

   さくら
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 吉野の山の山ざくら
 山いちめんにらんまんと
 呼吸(いき)するやうに咲きにほふ
 この気高さよ 尊さよ

 春の日あびて山ざくら
 ただ一心に 一斉に
 堂堂と咲く 咲いて散る
 このいさぎよさ きれいさよ

 顕花部被子類双子葉門
 離弁花区薔薇科桜属
 世界にまたとない種属
 日本の国花 山ざくら

 ぼくらの胸に花と咲く
 大和心のはげしさを
 姿にみせる山ざくら
 この凛凜しさよ 親しさよ


初出は昭和16年(1941)4月の雑誌『家の光』。「こども」欄に掲載されました。その際の題名は「ぼくらの花、桜」でしたが、昭和18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められた際、「さくら」と解題され、詩句も一部、変更されました。ちなみに「顕花部被子類双子葉門/離弁花区薔薇科桜属」には「けんくわぶひしるゐさうしえふもん/りべんくわくいばらくわさくらぞく」とルビが振られています。旧仮名遣いでは却ってわかりにくいところですが……。

昭和16年4月といえば、太平洋戦争はまだ始まっていませんが、昭和12年(1937)からの日中戦争は既に泥沼化していた時期です。その時代背景がぷんぷん臭いますね。「大和心のはげしさ」は云うまでもなく、「世界にまたとない」とか「日本の国花」とか……。そして「堂堂と咲く 咲いて散る/このいさぎよさ きれいさよ」。

昭和16年4月では、まだ特攻作戦は始まっていませんが、有名な軍歌「同期の桜」の元となった、西条八十の詩「二輪の桜」はすでに世に出ており、「花と散る」的な発想はもう一般的だったのかもしれません。

こういう詩こそ光太郎詩の真髄だ、大和魂の顕現だ、皇国臣民の鑑だと、涙を流して有り難がるアナクロニストが現代にも少なからず居て閉口しています。

一昨日オンエアされたNHK青森さんのローカル番組「あっぷるワイド」(18:10~19:00)の中で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の成り立ち等を取り上げて下さいましたが、光太郎の戦争責任についても言及されました。ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるというコンセプトだったため、ビデオ出演した当方も、需めに応じてその当たりを詳しく語らせていただきました。すると早速、幼稚なネトウヨが「けしからん」とSNS上で噛みついてきましたが(笑)。

そんなこんなで、桜と戦争的な連想が浮かんだわけです。桜には何の罪もありませんが……。

さて、昨日の帰途、サービスエリアでなみえ焼きそばを購入。当方も妻も好物です。
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少し前にはコロナ禍で工場がストップしていて入荷されていませんでした。少しでも復興支援になればと存じます。

こんなものも買ってしまいました。金属のプレートのついたストラップ。「ペア」と書いてあり、どういうことかと思ったら、刳り抜いた方と刳り抜かれた方と、雌型と雄型の関係ですね。本来、自分の名前の一字とかを購入するものなのでしょうが、光太郎の「光」の字のものを買いました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の別棟の便所「月光殿」に彫られた「光」一字を彷彿とさせられまして(笑)。
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まだ間引き運転ですが、東北新幹線も全線復旧。東北方面、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時半藤島氏来り、共に中野の中西氏宅に車、津島知事アトリエに来る、映画やラジオの人来り、草野君他皆と一緒に撮影、又座談、

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

「乙女の像」制作のため7年半ぶりに帰京、千駄木の実家に泊まって、朝には空襲で焼け落ちた自分のアトリエがあった場所を見ましたが、午後には像の制作のために借りた貸しアトリエに入りました。ここで起居することにし、結局はここが光太郎終焉の地となりました。