仙台に本社を置く『河北新報』さん主催のオンラインイベント「3.11大震災メモリアルトーク 想いと未来を語る2022」、3月11日(金)に開催されライブ配信されましたが、その後、編集作業を経てのアーカイブ配信が始まりました。
司会は山寺宏一さん。宮城県塩竃市のご出身で、3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画なさっています。
そうした関係をいろいろなさっている中で、当ブログでは、平成30年(2018)封切りの映画「一陽来復 Life Goes On」(当方友人が出演しています)のナレーション、その前年には女川町を舞台にした「アニメドキュメント 女川中バスケ部 5人の夏」にご出演などの件をすでにご紹介しております。
ゲストは音楽家・かの香織さん、プロレスラーの新崎人生さん、「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さん。
かのさん、新崎さん、それぞれの被災地支援レポートの後、「いのちの石碑」活動の紹介。震災直後に当時の女川一中に入学した鈴木さんたちの発案により、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。
鈴木さん、中高生の時には「女川光太郎祭」にもご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。
石碑以外にも、鈴木さんたちが手がけた「女川いのちの教科書」の紹介も。
かのさんや新崎さんの取り組みにしてもそうですが、本当に頭が下がります。
動画、貼り付けておきます。
「いのちの石碑」については59:40頃からです。
【折々のことば・光太郎】
晴、朝近所を散歩、25番地を見る、
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京し、千駄木の実家に一泊した翌朝です。「25番地」はかつて智恵子と暮らしたアトリエ兼住居のあった跡地。何気に書いてありますが、感慨深かったようで……。光太郎令甥・故髙村規氏の回想から。
「規、明日の朝学校へ行く前に、ちょっと自分ちのアトリエの焼け跡へ連れてってくれないか」って言われて、「そういうのはおやすいご用ですよ」って言って。
僕は、疎開先から帰って来てから次の日の朝すぐにアトリエの焼け跡へ見に行ったことがあるんですよね。地面から立ち上がりの階段がそのまま残ってましたけど、ずーっと周辺が板囲いしてあったんです。板囲いの隙間から中を覗いて見ましたらね、一体は焼け野原ですけれど、この一角だけ畑になってなかったんですよ。あの頃は、人の土地でも何でも自分で勝手に耕して種蒔いて、さやいんげんでも何でもできれば、自分のものになっちゃったんですからね。まわりは全部畑になっていましたが、光太郎のアトリエの一角だけは板囲いはしてありましたけれども、焼け跡のまんまだったんです。(略)石膏のかけらや本の焼け残りなんかがあったもんだから畑にしたくてもならなかったんですね。
(略)
それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱりまだ板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいてるもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね、隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いてるんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。(略)近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いてる」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んでいってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。
光太郎、さらに板の隙間から中に入りました。
光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。
司会は山寺宏一さん。宮城県塩竃市のご出身で、3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画なさっています。
そうした関係をいろいろなさっている中で、当ブログでは、平成30年(2018)封切りの映画「一陽来復 Life Goes On」(当方友人が出演しています)のナレーション、その前年には女川町を舞台にした「アニメドキュメント 女川中バスケ部 5人の夏」にご出演などの件をすでにご紹介しております。
ゲストは音楽家・かの香織さん、プロレスラーの新崎人生さん、「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さん。
かのさん、新崎さん、それぞれの被災地支援レポートの後、「いのちの石碑」活動の紹介。震災直後に当時の女川一中に入学した鈴木さんたちの発案により、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。
鈴木さん、中高生の時には「女川光太郎祭」にもご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。
石碑以外にも、鈴木さんたちが手がけた「女川いのちの教科書」の紹介も。
かのさんや新崎さんの取り組みにしてもそうですが、本当に頭が下がります。
動画、貼り付けておきます。
「いのちの石碑」については59:40頃からです。
【折々のことば・光太郎】
晴、朝近所を散歩、25番地を見る、
昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京し、千駄木の実家に一泊した翌朝です。「25番地」はかつて智恵子と暮らしたアトリエ兼住居のあった跡地。何気に書いてありますが、感慨深かったようで……。光太郎令甥・故髙村規氏の回想から。
「規、明日の朝学校へ行く前に、ちょっと自分ちのアトリエの焼け跡へ連れてってくれないか」って言われて、「そういうのはおやすいご用ですよ」って言って。
僕は、疎開先から帰って来てから次の日の朝すぐにアトリエの焼け跡へ見に行ったことがあるんですよね。地面から立ち上がりの階段がそのまま残ってましたけど、ずーっと周辺が板囲いしてあったんです。板囲いの隙間から中を覗いて見ましたらね、一体は焼け野原ですけれど、この一角だけ畑になってなかったんですよ。あの頃は、人の土地でも何でも自分で勝手に耕して種蒔いて、さやいんげんでも何でもできれば、自分のものになっちゃったんですからね。まわりは全部畑になっていましたが、光太郎のアトリエの一角だけは板囲いはしてありましたけれども、焼け跡のまんまだったんです。(略)石膏のかけらや本の焼け残りなんかがあったもんだから畑にしたくてもならなかったんですね。
(略)
それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱりまだ板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいてるもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね、隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いてるんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。(略)近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いてる」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んでいってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。
光太郎、さらに板の隙間から中に入りました。
光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。