当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究』の第43号が届きました。
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巻頭に2本の論考。いずれも千葉県教育庁にご勤務の、安藤仁隆氏によるものです。安藤氏、建築に造詣が深く、それぞれ建築に関する内容で、1本目は「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」。明治45年(1912)、光太郎自身の設計により竣工した、旧本郷区駒込林町25番地(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居(昭和20年=1945、空襲により焼失)の建築が徹底的に解剖されています。
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何とまぁ、光太郎本人が書き残した図面、当時の写真、周辺人物の回想等から、完璧な図面を再現されました。
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これまでも、簡略な図面は再現されてはいたのですが、あくまで簡略なもので、今回のものはレベチですね。

さらに、外観も。現代のコンピュータでは、ここまでできてしまうんだ、と舌を巻きました。
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これまで、アトリエ外観の写真は、上のほうに載せた画像(尾崎喜八撮影)を含め、南東側から撮ったものしか確認されておらず、他の方向から見るとこうだった、というのが手に取るように分かります。

さらに、光太郎によるこの設計、英国風の影響が色濃い、というご指摘。実際の建築の写真と比較すると、これもうなずかされます。
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光太郎、イギリスには明治40年(1907)から翌年にかけ、約1年滞在しましたが、こののちに移り住んだパリと比べ、美術の部分では、あまり影響を受けることはなかったと回想しています。ところが、人々のライフスタイルという面では、伝統ある英国ということで、好ましいものと感じていました。そこで、帰国後に設計したアトリエ兼住居にも、英国風の要素を多く取り入れたと思われます。

安藤氏の論考、2本目は「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養のため滞在した、千葉九十九里にあった家屋についてです。こちらは移築が繰り返され、最終的には平成11年(1999)に取り壊されてしまい、今は見ることが出来ません。

氏の亡父が、彼の地に今もある伊勢化学工業に勤務されており、移築にも関わられたそうで、移築後に住まわれた方とも交流があったとのこと。そこで、その方への聞き取り調査などを元に(一度、当方も同行させていただきました)、「田村別荘」の竣工から取り壊しまでをまとめられています。登記簿や昔の航空写真等も丹念に調べられ、こちらも凄いものだと驚愕しました。

元々は、大正9年(1920)に東京本郷区の田村豊蔵という人物が建てた家屋で、福島の智恵子の実家の破産後、智恵子の妹のセツ一家、そして智恵子の母・センが、昭和8年(1933)に移り住みました。そして翌年には智恵子が預けられています。
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その後、セツ一家が転居、所有者が何度か変わって、場所的にも移築され、昭和46年(1971)には地元の観光組合に譲渡されて、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。しかし、前述の通り、平成11年(1999)に取り壊されています。

重要なのは、昭和30年(1955)、大規模な改築が行われたこと。これにより、間取りも大きく変わり、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていた時期は、智恵子が暮らしていた頃とは似て非なる家屋だったというわけです。ただ、改築の際に、元々の部材等がかなり再利用されたようですが。

安藤氏、ここでも聞き取り調査等を元に、元々智恵子が暮らしていた頃の図面を起こされています。
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先述の駒込林町アトリエにしてもそうですが、こうすることで、光太郎智恵子の息吹的なものが、また違った角度から感じられますね。

安藤氏の論考2本の後に、当方の連載。

まずは「光太郎遺珠」。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後に見つかった光太郎の文筆作品等を、年に一度ご紹介するものです。ただ、昨年の『高村光太郎研究』は、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼号ということで、広く稿を募り、「光太郎遺珠」および後述の「高村光太郎歿後年譜」はカット。そこで、2年分の発見を載せてあります。

短歌が4首。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただいた、新発見の木彫「蝉」を収める袋(智恵子手縫いと推定)にしたためられていたものが1首、そして、東京美術学校で同窓だった彫刻家・今戸精司の死去に伴い、弔文的に贈ったものが三首。

散文が七編。ブロンズ彫刻の代表作、「手」(大正7年=1918)について語った「手紙」(大正8年=1919)と「」(昭和2年=1927)、彫刻家・毛利教武の彫刻頒布会パンフレットに寄せた「毛利君を紹介す」(大正8年=1919)、詩人・童謡作詞家の平木二六について述べた「藻汐帖所感」(昭和6年=1931)、さらに「リルケ全集について」(昭和18年=1943)、「賢治詩碑除幕式に於いて」(昭和25年=1950)、「(花巻の人は)」(昭和27年=1952)。談話筆記として「高村光太郎先生説話」(昭和27年=1952)。

雑纂という扱いにしましたが、新聞に載ったインタビューで、昭和12年(1937)、『北越新報』に載った新潟長岡での「高村光雲遺作展観」の観覧感想、昭和26年(1951)、『花巻新報』に載った、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋増築と、交流のあった写真家・内村皓一に関するもの。

書簡が13通。明治42年(1909)、欧米留学の最後に訪れたイタリアから、実弟の道利に宛てた絵葉書などを含みます。

それから、「高村光太郎歿後年譜」。これも一昨年、昨年の2年分で、このブログでご紹介してきたさまざまなイベントや刊行物等をまとめてあります。

ご入用の方、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。頒価1,000円だそうです。ちなみに「光太郎遺珠」作成にご協力いただいた方には、当方よりのちほどお送りします。その分を手配中でして。

【折々のことば・光太郎】

小屋片づけをしてゐる、 田頭さん夫人に婦人之友七年間の全部を進呈、


昭和27年(1952)10月8日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの帰京に向けての片付けです。ただ、像の完成後にはまた太田村に戻るつもりで居ましたし、実際、翌年にごく短期間戻りました。しかし、結局は宿痾の肺結核が、山小屋生活を続けることを許しませんでした。