青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。
中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。
「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。
そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。
澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。
最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。
下記が最高裁による判決文です。
この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。
そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。
中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。
ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。
まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。
誤 「ピオニエ」というルビ → 正 「ピオニエエ」というルビ
続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。
誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり
誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。
さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。
誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。
初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。
そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。
また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。
【折々のことば・光太郎】
盛岡から学生2名来る、写真撮影、
「学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。
題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。
中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。
「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。
そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。
澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。
最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。
下記が最高裁による判決文です。
この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。
そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。
中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。
ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。
まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。
誤 「ピオニエ」というルビ → 正 「ピオニエエ」というルビ
続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。
誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり
誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。
さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。
誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。
初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。
そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。
また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。
【折々のことば・光太郎】
盛岡から学生2名来る、写真撮影、
昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳
「学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。